ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

今年も、音楽のレベルが確実に上がった

 

 

もう12月も半ばなんだね。 光陰矢の如し。 歳をとるにつれて、月日の経つのがどんどん早くなってくる。 早過ぎるよ...。 健康で長生きしなきゃねって心底思うよ。  

 

と言いつつも、今年も、去年と比べたら音楽に関して大きな進歩を遂げたことを実感できて、嬉しい限りだ。 具体的には:

 

① アドリブ演奏が離陸してきた!: 

これはもう、ボキャブラリーの蓄積に尽きるね。 子どもの頃にピアノでやりたかったことが、この歳になってようやく、本格的にできるようになってきた。 セミプロ級にはなったかなという実感が有る。 別に思い上がってはいない。 音楽センスが無い「自称プロ」が本当にたくさんいるからね。 

まだまだこんなもんじゃないよ。 来年以降は、さらに進化しているだろう。 だって、私がリスペクトして聴きまくっている、つまりジャズ分野の用語でいうところの、私が「ディグっている」、演奏家の最大の繁忙期であるこの12月に日本中を飛び回って連日連夜演奏しまくっている超一流ケンバニストさんたちが実際に演奏するCDなどの作品音源やライブが、私の師匠だから。 上達しないわけないでしょ。 

 

② ピアノがますます弾きやすく、ますます音が良くなった!: 

今まで生きてきたうちで今がいちばんピアノを縦横無尽に弾けるようになった! 音もキレが増して、音量と音色のコントロールが冴えてきて、嬉しいかぎりだ! 当人比較だけど、ピアノ習ってた子どもの頃とは大違い!還暦も近いのにさ! すごいなー、人間、やればできるもんだなー! これはひとえに、姿勢の改善の成果だ!と、姿勢改善を5年以上意識して続けてきて実感している。 いつも意識して考え試行錯誤しながら過ごしているので、日々刻々と姿勢の改善が実感できているという事実。 自分の身体を自由に動かせる「基地」である姿勢の改善なくして、演奏技術の向上と良い音は無い!と私は確信している。 姿勢が改善すると、ミスタッチも減るんだね!いや~人体の物理はスゴイよ! とはいってもこれは、身体的に恵まれていないうえに既に「いい歳」の私のような、身体的に不利な人間の場合だ。 背が高くて手足が長くてもちろん指も長くて若くて筋力もあるんだったら、こんな苦労はしない。 身体運動能力が死活的に必要な技芸のジャンルは、その人の持って生まれた体格や筋肉量や運動神経と、その人の年齢が、残忍非情に影響する。 貧相な体形&老体でマトモにスポーツができますか?楽器演奏の運動技能的側面も同じだ。 背の高い女性であれば、バスケやバレーボールや、本物のファッションモデル(身長175cm以上が必要だろう)を目指すのもいいけど、趣味でもいいからその恵まれた体格と長い指をピアノに生かしてみてはどうだろうか。  演奏者本人のアレンジ(編曲)が0.01%も許されない、今日(こんにち)のクラシックピアニズムの世界では、「届く イコール 絶対的な勝ち」だ。 小柄でオクターブにようやく届く手の大きさのピアノ教師に何をどうダメ出しされたところで、貴女のその物理的レバレッジ(てこ)が効く長身の体とその大きな手で楽譜に書かれた10度の和音をバーン!と弾いた時点で、貴女の勝ちだ。 クラシックピアノ曲の演奏にとって絶対的な優位性を持ってこの世に生まれてきたのだから、絶対的に不利な多くの人たちの無念を晴らしてほしいものだ。  

かたや、音楽演奏の頭脳的側面も、別の意味で非情なほどに残酷だ。 理系能を持っていないと、楽譜どおり機械的に演奏するレベルで終わってしまう。 音楽の真髄は、その数次元上にある、作曲活動だ。 作曲活動のためには、理系能が死活的に必要だ、だって、音楽は、音波の組み合わせだから。 即興演奏主体の音楽ジャンルで、理工系大学/学科の出身者や、「子どもの頃に珠算(そろばん)の全国大会で入賞」といった、生まれつき理数系に強いミュージシャンが成功している理由が、これだ。 

だが、最も残酷非情なのは、音楽創作&表現のセンスが有るか無いか?に尽きる。 おカネを稼げる本物のプロ演奏家の世界では、どの音楽ジャンル出身かとか、音大を出たかどうかは、実のところ関係が無い。 とどのつまりは、作曲・即興演奏・編曲、それらを統合した音楽の総合力が求められるライブコンサートや演奏サポートやレコーディングにおいて、音楽創作と表現のセンスが優れている音楽家しか、プロ業界で生き残っていない。

単なる再現演奏しかできないピアニストが中年以降のキャリアで行き詰まるのは、彼らが、市場が求める、つまり、おカネになる音楽を創り出せないからだ。 30歳を過ぎたころから演奏仕事が減っていったら、それは、そのピアニストが提供する価値が「生物学的な若さ」しかなかったからだ。 だって、誰かの作品をそのまま再現演奏するだけなんだから、お店なりクライアントなりお客さんは、もっと若くてピチピチしたのを見ていたいじゃない? 一方、その作品を作った誰かの価値は、市場がそれを求める限り、そして著作権が失効しない限り、その誰かがジジババになっても下がることはない。 歌謡曲やポップスの大御所たちがいまだに老いてますます盛んにコンサートで全国を飛び回っているのは、彼らの価値が「生物学的な若さ」ではなく、彼らの存在そのものと、彼らの作品や歌唱力/演奏力と、彼らのステージパフォーマンスが、すべて一体となった、彼らが創出する総合的なコンテンツが、彼らの高い付加価値になっていて、お客さん(=市場)が喜んでその付加価値におカネを払うからだ。 市場は常に、新たな創作物を求め、独創性の高い優れた作品やパフォーマンスにおカネを払い続けている、ただそれだけだ。 だいたい、著作権が切れたパブリックドメインの(=経済価値が無くなった)クラシック作品を単に再現演奏するだけでおカネが稼げる経済的な道理は、もともと最初っから無いんだ。 「ハンバーガー1個や今夜寝るカウチ(ソファー)を得るためだけに、喜んでピアノ協奏曲をフルで演奏するピアニストが山ほどいる」と、アメリカのある大学の音楽学部の教授が動画で語っていた。 超売れっ子のピアニストを除いて、巷(ちまた)のピアニストがピアノ協奏曲をフルに演奏しても、その価値はハンバーガー1個分。 その理由は、著作権という経済価値がとうの昔に償却済みのパブリックドメイン作品を再現演奏する能力しか持たないピアニストの数が多過ぎるからだ。 つまり、少ない需要に対して大幅な供給過剰状態なので、完全な買い手市場になってしまっていて、買い手側に激しく買い叩かれてしまうからだ。 日本でもそうじゃないかな? お弁当の支給が無いよりも更に悪い、何ももらえないばかりか自分の身銭を切って演奏している、事実上「持ち出し」のピアニストが多いんじゃないかな。 弾けば弾くほどカネが減る活動は、本人を長年金銭支援し続ける人(=パトロン、旦那)の趣味道楽だ。 ほとんどの「自称プロ」のクラシックピアニストが、良くてピアノ教師、通常は事実上の家事手伝いや専業主婦(夫)の身分に落ち着く理由が、ここに在る。 著作権がとうの昔に失効してしまって経済価値がもはや無い作品をただ演奏するだけでは、稼げないんだよ。 だから、自分の存在に音楽以外の「ストーリー」を付加して自分を売ろうとする、再現演奏専業のクラシックピアニストが多いでしょ? これは、「クラシックピアニスト」という存在が既に「コモディティ化」してしまっていることの表れだ。 「コモディティ」って何? 「コモディティ」とは、相場商品のことだ。 一個一個の品質と価値が変わらないから、どこの店で買っても同じ値段で買える物のことだ。 コモディティ商品の代表が、貴金属の金だ。 金は、「〇〇貴金属」の店で買っても、「■■マテリアル」の店で買っても、その日の金相場の値段で買えるでしょ。 金という商品は、世界中で同一の内容で同一の値段だから、どの店で買ってもかまわないのだ。 コモディティ化」してしまったものは、金のように、もはや一個一個の違いが無くなってしまった商品だ。 金であれば「どの店で売っている金でもよい」し、決まった楽譜を再現演奏するだけのピアニストであれば「誰でもよい」のだ。 「誰でもよい」んだったら、若くて顔がいいほうがいいでしょ? でも、若さは必ず失われるから、「〇〇なピアニスト」みたいに、ピアノ演奏とは関係の無い枕詞をくっつけて自分を差別化するしかない。 「〇〇なピアニスト」というキャッチコピーは、落語の噺に出てくる「六尺三寸の大鼬(イタチ)」の看板と同じだ。 それから、世界的に著名なコンクールの入賞経歴も、年々、次から次へと新たな入賞者が出るから、どんどん価値が下がっていくし、コンクールの審査が果たして公正なものどうかだって、一般人にはわからない。 オリンピックのフィギュアスケートで審査員の不正が発覚したことがあったでしょ? ある国の代表選手の採点が上がるように、その国が審査員に賄賂を払っていたことが発覚してニュースになった。 それに、ある国の選手が優勝してばかりいると、あたかもその選手を不利にするかのような審査基準の変更が起きる。 きらびやかなアイスリンクの下の闇で繰り広げられる各国のドロドロした足の踏んづけ合いバトルが透けて見えるようだ。 どうしてそうなってしまうかというと、コンクール事業は、利権と賄賂の巣窟になりやすいからだ。 コンクールビジネスからカネを受け取る審査員は、演奏者を雇ってカネを払うクライアントではない。 コンクール商法とは、参加者からカネを取って、主催者と審査員がカネを儲ける仕組みだ。 つまり、参加するピアニストたちこそが、コンクール商法の「お客様」なのだ。 自分がカネを払って参加するわけだから、カネをもらう立場の審査員に対して「魚心あれば水心」が効く構造に本質的になっているのだ。

ピアノコンクールの参加者がカネを払って演奏するのに対して、音楽業界で活躍するケンバニストたちは、カネをもらって演奏する。 これがプロの演奏家だ。 非クラシック出身のケンバニストたちは、音楽産業の法人クライアントから請け負った仕事の実績を看板にして自らを売っている。 「メジャーレーベル所属の著名バンド〇〇在籍/出身」や「大物アーティスト/バンドのツアーサポート」や「トップアイドルのレコーディングに参加」や「テレビ番組や舞台芸術の音楽の作曲&演奏」や「フェスなどの大規模音楽イベントに招聘される」や「大規模自治体の渾身の文化事業に起用される」といった、法人クライアントからの雇われ仕事で演奏した具体的な仕事の実績が彼らの売り看板になっている。 だから、彼らには、「〇〇なピアニスト」なんていう、客の好奇心をそそるために見世物小屋の入り口に立てかけた看板のようなキャッチコピーは、必要無いのだ。 音楽産業相手に確かな実績を上げているクラシック出身ピアニストも同様だ。 法人クライアントに雇われた仕事を通して自分独自の付加価値を提供して、提供した付加価値がおカネになる。 それがリアルな仕事だ。 リアルな仕事を遂行する積み重ねが、職歴であり、一般社会でいうところの履歴書の一行一行になっていく。 音楽産業からの請負仕事を遂行して実績を上げ続けているミュージシャンは、一般社会と同じ仕組みの中でキャリアで成功しているので、私は彼らの実力を信用する。 

上記で「法人クライアント」と書いたのには、理由がある。 プロの演奏仕事に「一般人の個人クライアント」は含みませんよ、という意味だ。 趣味のコーラス隊やママさんシャンソン仲良しサークルに雇われて伴奏する、一般人の素人相手のピアニストは、プロ演奏家とは言い難い。 一般人の素人が要求するレベルは、当然ながら、プロの音楽産業の要求レベルとは「泥(一般人)と雲(音楽産業)の差」だからだ。 だいいち、一般の素人からの雇われ仕事は、昼間の仕事でしょ? プロの演奏家稼業は、夜の仕事だ。 夜の仕事をしてなきゃプロの演奏家とはいえない。 それから、「リサイタルを開催しました!」というピアニスト本人によるアピールも、簡単に信用するわけにはいかない。 実質的に、落語の「寝床」の噺に出てくる資産家の主(あるじ)の義太夫発表会と同じ性質のものかもしれないからだ。 具体例としては、私がピアノを再開する前に一時期習っていた芸事の教室に「遠距離通学」していた「生徒さん」。 彼女は、ある地方のある場所一帯を所有する大地主の娘で、定期的に自分の手習い芸の発表会を、自宅の「離れ」で開催し、その「離れ」に毎回100人以上の「お客さん」が押し寄せるのだ。 私も手伝いがてら呼ばれて一度伺った時に驚いたのは、彼女がステージに登場してお辞儀をすると、半数以上の「お客さん」が、彼女に向かって彼女よりも深々とお辞儀をするのだ! 演者に向かって客のほうが深々と頭を下げる、その光景に、もうビックリしたよ! 彼女はそれでもまだ良心的で、さすがに自分の芸だけでは、自分の趣味道楽に付き合わせる「お客さん」に悪いと思っているのか、お教室の先生(正真正銘の芸能人)を同時に呼んでパフォーマンスさせて、先生(芸能人)に、芸能界での格に見合ったギャラ(両手の指だけでは到底足りない金額)と別途お車代(長距離高速交通機関の指定席往復券)を渡していた。 つまり彼女は「生徒」という名の「芸能人のパトロン」なのだ。 プロの芸能人の芸をタダでというわけにはとのことで「お客さん」から申し訳程度に徴集する安価なチケット代の収入なんて、芸能人へのギャラ+お車代を到底カバーできないどころか、そのほかの、手伝い要員たちへの交通費や弁当代、出演者やスタッフの昼食代などの出費を足し上げて、持ち出し(赤字)の合計額が30万円以内に収まれば上出来という採算だろう。 「このレベル(のカネの使いよう)が大人の趣味道楽なんだなぁ」と、私も大いに社会勉強になった。 こういった、自分(の父親や兄や亭主である当主や社長など権力者)に義理合って断れない、弱い立場の人たちを、実質的に強制動員して開催する、お姫様のお道楽リサイタルが、この世には確かに存在するから、「自主興行リサイタル開催!」をアピールするピアニストの実力について、まずは疑ってかからねばならない。         

 

③ トランスクライビング(耳コピ)能力が上がった: 

子どもの頃に10年以上クラシックピアノのお稽古に通ってさぁ、世の中に日常的に流れている音楽が解明できないって一体全体あのお稽古の年月は何だったのか? そもそもあんなに狂ったようにツェルニーを何十番までやる必要があったんでしょうか? それに費やした時間の分だけ、私の音楽耳はクラシック古典派までの時代で錆び付き止まってしまった。 だから私はクラシックピアノのお稽古を信用していないんだ! 大昔の音感しか持ってなくて現代の音楽が理解できる筈ないもん。 だから、50代になってピアノを再開できた時から、私は一貫して、クラシックピアノのお稽古メソドロジーをことごとく否定する方法を採り続けている。 子どもの頃のピアノの先生に言われたことを、いちいち踏んづけて、それでもなかなかクタバらないから何度も何度も、何度も何度も踏んづけて、その上に塩をドッサリ撒いてお祓いしながら続けているんだ。 つまり、脳内の天動説を地動説に変える、宗旨替えを行っているのだ。 価値観の180度の転換だから、当然ながらメチャクチャ大変だよ...。 だから、天動説のクラシックピアノ教師が地動説のジャズピアノを教えられるはずが無いんだ!ということが、実感として解る。 クラシックピアノ教師に教わるジャズピアノとは、あたかも、母親の胎内で髪の毛と歯しか育たなくて身体無く死産で生まれた赤ん坊のごときものだ(←東京藝大の教授であらせられた三木成夫氏の著作を読まれたい)。 

ピアノ再開当初だけピアノや作曲のレッスンに通ったけど、それ以降は自分の心のままに、「自分の好きな曲をこういうふうに即興演奏できたらいいな」という思いをエンジンにして、いろいろなことを試行錯誤&探求してきた。 もっとも、ピアノや作曲のレッスンに短期間通って良かったと思う。 だって、「はは~ん、ピアノ教育業界(の実体)って、そうなんだ」とか、「そうか、音大作曲科出身者の技術(的な制約)とは、こういうところで顕在化するんだ」って、いろいろ見聞を深めることができたから。 あたかも、「鶴の恩返し」の民話のように、見てはいけない部屋の中を図らずも見てしまったような気持ちだ。 音大のピアノ演奏科や作曲科の出身で、プロの音楽産業の第一線で活躍している人たちの音楽を聴くと、彼らは、彼ら特有の環境的制約を自力でぶち破った人たちだなぁと、つくづく思う。 自らがクリエイターになった人たちしか生き残っていない。 

 

自分が「この人はスゴイ!いや、スゴイを通り越してもはや異常!」と思う超一流ミュージシャンたちの音楽を、闇夜の道の遠く彼方にかすかに光る道しるべの松明(たいまつ)のように追い求め続けて、気がついたら、当初は茫然と聞いているしかなかった超一流ケンバニストさんたちの、音楽センスの塊(かたまり)のような作品が、だんだん聴きとれるようになってきた!  私のやり方は間違っていない。 おそらく、若い頃から音楽産業で演奏で稼いできた超一流のプロたちの10代の頃と同じ方向性でやっているからだ!と確信している。 この調子で来年もいろいろな試行錯誤&探求を続けていく。 なんせ、今年単年だけでも、去年の四つん這いの赤ちゃんハイハイ歩きのアドリブ演奏から比べると、ほんの一瞬でも両足で立てる瞬間ができてきたからね。 来年も、自ら試行錯誤して、いろんなところにつまづいたり、ころんだりしながら、自分の足で地面を踏みしめて、楽しく遊び続けるよ。 来年はどこまで行けるかなんて、ほんとうに鬼(魔物)が笑うようなもの(=どーせ達成できない目標)だから、考えるのも無駄。 今まで歩いてきた、泥んこになった両足が、私の確かな勲章だ。 

 

それにしても、ほんとうに人生は短すぎる! 短い人生、どこまで進めるかわからないけど、当分行けそうだから、来年もこの調子で自宅のケンバン楽器(電子キーボード(複数)+電子ピアノ+アップライト+グランド)で遊び続けるよ! 「練習」?そんなもんするもんか! 時間を忘れて没頭する三昧(ざんまい)の境地の中で、ヒト独自のクリエイティブ脳を360度フル回転させて失敗成功の別なくあらゆる経験値の集積を基盤に脳内のシナプスをオーガニックに縦横無尽につなげて指数関数的に進化発展していく行為、つまり、遊びを続けていくだけだよ! 

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