ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

身体ほぐしを始めてから5年経った

 

ピアノ演奏のためのというか還暦以後の幾久しい健康寿命のために身体ほぐしを始めてから、この8月下旬で5年が経った。

5年前に始めて本当に良かった!と心から思う。 この5年のうちに、姿勢が良くなり、それとともに、左の股関節のつまり感が消え、ピアノを弾く動作に安定感と力強さが出てきて、ピアノの音も良くなった。

 

クラシックピアノの場合、99パーセントが姿勢で決まる、と私は思っている。 姿勢が決まらないと、身体の動作効率が格段に悪くなって、届くキーにも届かないし、鳴らせる音も鳴らせられない。 もちろん、自分の手の大きさや指の長さによって、物理的にどうにも届かないことがあるが、そのようなピアノ演奏に不利な身体スペックで生まれてきたのであればなおさら、身体の動作効率を鬼のように上げないと、生まれながらに物理的に届く絶対的に有利な人たちに、仮に追いつける可能性がわずかにあったとしても、その可能性はゼロだ。

プロ野球を球場で直(じか)に観戦した人であればわかると思うが、バッターの身体動作が、打球の音と飛び方に絶対的にリンクしている。 これ以上ない絶妙のスイングでボールをバットの芯でとらえて打ち返した時の、「カーン!」という抜けるような爽快な響き! そしてギューンと加速しながら飛んでいく打球が描く美しい放物線! これに対して、狙いやタイミングを外されたバッターが腰砕けでなんとかバットに当てたボールの「ゴン...」という何とも鈍い、気色の悪い音と、前下がりで勢いなく落ちていく飛球。 ピアノの打鍵も同じことだが、打たさないようにと相手チームのピッチャーが敢えて厳しいゾーンに投げてくるボールを打つなんていう神業をする必要は、無い。 ピアノの場合は鍵盤が動かないから、基本的には10割の打率でクリーンヒットを打つことができるはずだが、それができないのが素人だ(けど、「自称プロ」レベルのクラシックピアニストでもそれが出来ていない人がたくさんいると見受けられる)。 私の場合、姿勢が決まった時の自分が弾くピアノの音は、アップライトピアノの時は、クリアーで澄んでいて、しかもお腹に響いてリッチでつややかに響いて、グランドピアノを弾くと、クリアーで澄んで、しかも、お腹に響いて豊かに広がっていく感じがする。 もちろん、ピアノのメーカー/製造年/メンテナンス等によって、ピアノの音は千差万別だと思うが、理想的なフォームで弾くと快い音がすると感じる。 逆に、姿勢が決まらない時は、どんなに一生懸命弾いても、どんなに長時間躍起になって弾き続けても、良い音が鳴ることは、ない。 クラシックピアノ教師によるレッスンにおいて、手首から先の手の形や親指くぐりやなんやかやと末端の動きばかり指導を受ければ受けるほど、おおかたの人はうまく弾けるものもうまく弾けなくなってしまう、と、実体験から思っている。 大元(おおもと)の原因に光を当ててそれに対処しない限り、末端の動きをコネくりまわせばまわすほど、ドツボにはまっていき、永遠にできなくて永遠に悩んで悲愴にレッスンに通い続ける良い生徒さん(優良顧客)の出来上がりだ。  

ちなみに、ジャズピアノの場合は、99パーセントは脳内の音楽文法と音楽ボキャブラリーの豊かさ/貧しさで決まる、と私は思っている。 野球のバッターがどんなに良い音で良い打球を飛ばしても、野球のルールを知らなければ、ファールグラウンドに飛ばしてばかりで塁に進めなかったり、外野手めがけて打ってしまってライナーフライでアウトになったりして、一向にゲームが始まらないというかゲームにならないからだ。 ジャズピアノのにわかレッスンを受けて教えようとするクラシックピアノの教師の企みが早くも頓挫する理由は、プロのジャズピアニストが四六時中そればかりを、あるときは泣きじゃくりながら、あるときは血反吐を吐きながら、自分の人生を削って何年も何年もかけてようやく構築したジャズピアノのボキャブラリーの集積にまったく敬意を払う気すらなくいきなりビル・エヴァンズなんかに飛びつこうとするからだ。 クルマのガソリンエンジンの力を借りてしか坂道を登れないような、本来の意味の体力が全く無い人間が、いきなり海抜ゼロメートルから富士山に身一つで登れるはずがないことが、どういうわけかわからないらしい。

 

身体ほぐしに話をもどして、 

今まで5年間、身体ほぐしを続けてきたので、

今後は、3年先を目的地に、引き続き続けていく。

老化は、姿勢の悪さからくる。 姿勢の悪さは、メンタル環境の悪さからくる、と私は思う。 自分を追いつめて痛めつけないように、のんびりとほがらかに生活していきたい。

 

5年前に始めてラッキーだったのは、コロナ前に、単発ながら何種類かの身体操作のセッションに直(じか)に参加できたことだ。

元バレエダンサーのトレーナーによるフェルデンクライスでは、トレーナーさんの良い意味で力が抜けた緩(ゆる)いオーラから学んだ。 人間、あんまりいきり立って一生けんめい過ぎてガチガチ頑張っても、いいことないんだろうなぁ、と思えた(←仕事では頑張りどころで頑張らないといけないと思うが)。

役者やオペラ歌手が指導する身体操作セッションは、トレーナーさんたちはもとより、ダンサーや舞台役者の参加者たちに囲まれて参加できたことがとても良かった。 やっぱり、その道のプロである先達(せんだつ)さんたちに囲まれて身体を動かしていると、その人たちの動きが自然に目に入ってきて、自分の脳に転写されるので、とても得難い学びになるし、身体操作の達人たちのオーラをおすそ分けしてもらえると思う。 

 

ところで、

 

「先達(せんだつ)さん」とは、その道で今現在も現役で稼働中の人たちであって、先生ではない、いや、

本当の先生とは、はるか先を今も現役で、高い次元で転んだり這ったりしながら今現在もその道を現役のプロで歩き続けている大先達さんのことなんだ。 

そのような、今現在もその道の第一線で稼働中の大先達さんの周りには、「この人から学びたい!」と、自然に人が寄ってきて、「私たちを教えてください!私たちを引っ張っていってください!」と、自ら弟子を志願する人たちが集まってくる。 他人から請われて教えるようになるのが、本来の意味での先生である。 だから、

本当の先生は、なにもその道の技術を手とり足取り教えることをしなくても、当人の一挙手一投足が、すでに優れた教材なのだ。 「芸は盗め」といわれるのは、そういうことである。 マニュアルやカリキュラムに従って教えることしかできない存在は、ニセモノだ。

よく音大で、そのジャンルで一世を風靡して今現在も第一線で活躍中の大御所のミュージシャンが先生に起用されているが、その大ミュージシャンたちと同じ場所で同じ空気を吸い、彼らから実際の仕事現場の生々しい経験談を聞けて、なによりも、彼らの超一流のプロならではの実演に間近で触れられることが、学生たちにとっていちばんの学びなのだ。  

私は「教えるだけ」になってしまった人から教わるつもりは無い。 とくに、若くして「教えるだけ」の人になってしまった人は、いったい全体どういう人なのか? と思ってしまう。 大学を卒業したてで、社会でプロ経験も積まずにいきなり「先生」になれるのは、子ども相手か、若さを売り物にする類(たぐい)のものだけだ。 社会でそのスキルを実際に使って、自由業の場合は文字どおり一年365日しゃにむに働いて、その業界に認められてお金を稼ぐという、プロの就業経験もないのに「教えて何十年」の人は、「教えること」の経験だけが溜まっていくので、そういう人からは「教えること」を学ぶことができるだろう。  また、いつまでたっても誰かにカネを払って何やかやと習っている「先生」なるものは、実質生徒だ。 他人に教えてカネを取れる内容とは、自らがそれを遂行/実演/納品して産業界からカネを取れる内容だけだ。 「何かを習ったらすぐにそれを誰かに教えてカネを取れる」ということは、大人の社会では有り得ない。 何かのスキルを習ったら、その次に来るプロセスは、自分がそのスキルを実際に実行できるかどうかを雇用主から厳しく品定めされる見習い期間や試用期間であって、それを経た後に、ようやく、新入りとして実際の仕事を通して厳しく仕込まれるプロの仕事の世界が始まるのであって、人に教えるなんて10年いや20年早い。 何かを習う側は、自分が本当の意味での先生から習えているのか、それともニセモノ教師や実質生徒から習っているのかを、厳しく見極める必要がある。 そうしないと、自分の限り有る人生の時間を削って必死で獲得したプロのスキルと知見を使いまくって働いてやっとのことで稼いだ自分の分身であるお金が、素人仕事を買うために使われるんじゃァ、自分のお金が、そのお金を稼ぐためにつぎ込んだ自分の心血と自分の限り有る人生の貴重な時間が、つまり、この世における自分の存在自体が、泣く。

 

一方で、

その道のアマチュアの先達さんたちから学べることは、思いのほか大きい。 これは、身体操作も、ピアノも、同じだ。

身体操作では、ヨガ、水泳、バレエのアマチュアの方々のブログやサイトを読んだことが、強力な励みになった。 皆さん、ご自分で脳に汗をかき、試行錯誤をし、固い身体を柔らかくしていったり、股関節の固さを改善することで腰痛を治したりされていて、読んでいてとても参考になったし、大いに励まされた。

ピアノでは、ジャズピアノを独学している方々のサイトや動画に、いちいち納得し励まされながら続けてきた。 特に、コロナ後に動画投稿が爆発的に増えて玉石混交状態と過広告状態になる前に、プロ/アマ問わず実(じつ)の有る方々の本当にためになる動画をたくさん視聴できたことは、とても大きい。 今は、差し挟まれるCMがウザくなってきたので、動画はほとんど見なくなった。 サイトやブログは今もあまり過広告状態になっていないので、時たま読みに行って励まされている。 サイト主やブログ主さんたちが綴る、実際の苦労や失敗経験や試行錯誤の苦闘の記録ほど、学びになるコンテンツは無い。

 

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