ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

自分の演奏を動画に撮ると、いろいろ気づける

 

私が「この人は一流以上だ!」と思うケンバニストさんたちが口をそろえて言うのは、「自分の演奏を録音して自分で聴くと良い」という内容だ。 

 

自分が信奉するケンバニストさんたちのプレシャス過ぎる金言なので、私はピアノを弾くときは毎回、ICレコーダーで録音しっぱなしにしていて、定期的に、パソコンに外付けしたハードディスク(が今風に進化したHDなんとかってやつ)に取り込んで、聴いている。 最初は、自分の演奏なんてヒドイもんだから聞きたくもないよ!って思っていたけれど、聞き慣れてくると、やらかしミスを聞いても平気になるものだ(←これは重要かも。自分のミスに対する耐性ができて、冷静に対処できるようになるだろうから)。 もちろん、自分の演奏よりも、自分が信奉する超一流のケンバニストさんたちの音源の超一流の演奏を長時間聴いて良い影響を受けることが大切だ。  

そして昨日は、久しぶりに自分の演奏を動画に撮って視てみたら、いろんな気づきがあったよ。  

 

自分の演奏を録音したり録画したりすると、いろいろ気づけることがあってプラスになると、本当に思う。 たとえば: 

 

自分の演奏がまんざらでもないことを知って、自信になる 

5年前とは大違い!「継続は力なり」って本当だね 

ピアノの種類によって、上手く聞こえる場合が大いにあると思った 

素人くさい演奏と、本物のプロの演奏と、どこが違うのかがわかる 

 

 

① 自分の演奏がまんざらでもないことを知って、自信になる 

「私なんて、いつまで続けてても、ヘタなままだから...」と自信のカケラも無い人が多いんじゃないかと思うけど、録音や録画で自分の演奏を視聴すると、客観的に見ることができるから、「あれ~?まんざらでもないかもな~」って思うかもしれない。 そう思ったら、ちょっぴり生まれたその自信をすぐつかまえて、自分の心の中の宝箱に入れて、すぐにフタをして大切に貯めておくといい。 そして、仮に、ピアノのレッスンに行って、ピアノ教師からネガティブなダメ出しをされても、自分の宝箱にしまった小さな自信の宝石を絶対に明け渡してはならない! 偉そうなことばかり言う教師や、ダメ出しばかりする教師は、たぶん、子供のころや学生時代に、偉そうなことばかり言う高圧的な教師にダメ出しばかりされて、自分の心の宝箱の自信の宝石を全部明け渡してしまった人なのかもしれない。 そして、今度は、教師になった自分が誰かに高圧的にしたりダメ出ししたりして、誰かの自信を強奪して、空っぽになった自分の心の宝箱を埋めようとしているのかもしれない。 教師本人に全くそういう気持ちが無くても、無意識にそうしているかもしれない。 だから、そのような負の連鎖(=魂の地獄)には、絶対に寄り付かないことだ。 自分の心の宝箱の中でキラキラ輝く小さな自信の宝石たちを、人にあげてはいけない! と私は思う。 というのは、私はいつも自分の自信の宝石を人にあげつづけてきたと思うからだ。 今まで十分に人様に差し上げたから、もうあげないもんね。 だからこそ、自分の演奏録音や動画を自分で確認して、「あれ~、まんざらでもないな~。もっと良くなりたい点はいろいろあるけれど、今の時点では上出来だよ!さあ、これからも楽しく続けていこう。来年の今頃には、もっとできるようになっているに違いないよ!」と思えることが、とても大切なのだ。 

 

② 5年前とは大違い!「継続は力なり」って本当だね 

①と同じ。

 

③ ピアノの種類によって、上手く聞こえる場合が大いにあると思った 

これは、録画した自分の演奏動画を見てそう思った。 ピアノ教師やピアニストが「やっぱりグランドピアノ!そしてグランドピアノだったら大型の機種。そして、高級輸入ピアノがいちばん!」と言うのは、それなりの理由があるからかもしれない。 グランドピアノで弾いたほうが「上手く聞こえる」ような気がするんだよね。 たぶん、ピアノ自体が大きいほうが音に響きの深さが出るから「上手く聞こえる」のかもしれない。 アップライトピアノは、普通の家ではどうしても響板を壁にビッタリつけて置くから、響きがどうしてもスン詰まりになっちゃうのかもしれない。 アップライトピアノの場合は、可能な限り壁から離して置いたり、上の屋根を開けたり正面の板をとっぱらって弾くと、格段に豊かな音が出るだろう。 

でも、なんといっても、グランドピアノには「音大卒の人たちが持っている」っていうイメージが付いているから、イメージの恩恵で上手く聞こえるんだろうなぁ、って思った。 逆にアップライトピアノや電子ピアノは、そういうイメージが付いてないから、弾く人にゲタをはかせてくれないから、弾く人に厳しい楽器だと思う。 だからかなぁ、一流のケンバニストさんたちは、グランドピアノで勿論スゴイが、アップライトピアノを弾いても素晴らしい音楽を奏でるんだよね。 ということは、グランドピアノで上手そうに聞こえてもアップライトピアノの演奏が冴えない人は、二流以下だということが、わかってしまうんだ。 グランドピアノが隠してくれていたボロが、アップライトピアノは隠してくれないから、二流以下的ツメの甘さがあからさまに出ちゃうんだよ。 素人にとっては、「グランドピアノの威を借る下手な自称プロ」を厳しく見極められる。 

一流以上のクラシックピアニストが、海外の高級グランドピアノを欲しがる理由は、テクニックではもはや皆さん一流以上だから高水準で「似たり寄ったり」なので、そうなると、楽器そのもので差別化したいと思うようになるのかもしれない。 バイオリニストがストラディヴァリだっけ?を欲しがるように。 「クラシックピアニスト」としたのは、クラシックピアニストは、昔の大作曲家たちが作った曲を、楽譜通りに寸分たがわずに弾いて凌ぎを削る商売だから、音楽コンテンツで自分を差別化しにくい。 だから、演奏する楽器(ピアノ)の大きさやランクへのこだわりが強くなるのかもしれない。 これに対して、ジャズピアニストやキーボーディストは、即興演奏と自作曲が自分の売りに占める割合が大きいので、ピアノの機種よりも、自分が創出する音楽コンテンツで自分を差別化する方向に向かうのだろう。

素人のクラシックピアノ愛好家についても、買えるおカネと、良い状態で置ける環境を持っているのなら、良い楽器を買ったほうが、楽器が助けてくれることが有るのではないか、と思う。 これに対して、ジャズやポップスなど非クラシックのケンバン愛好家は、なにはなくとも、ケンバン楽器で音楽文法にのっとった即興演奏をして自己表現したくて非クラシック愛好家なはずだから、ピアノの種類よりも先に、即興演奏ができるようになりたい。 そのためには、ケンバン楽器であれば、グランドピアノでも電子キーボードでも、何でも構わない。 いやむしろ、ギアがセカンドに入るまでは、いやいやギアがサードに入っても、電子キーボードやエレピのほうが断然有利かもしれないと、私は思う(ギアがトップに入ったら、もはや弾くケンバン楽器を選ばない、即興演奏の達人のレベルだ。即興演奏の達人レベルになってからアコースティックピアノの弾き方を工夫し始めても遅くないだろうと、個人的に思う)。 どんなに高級なグランドピアノを持っていても、即興演奏ができなければ初心者だし、逆に、通販でポチった電子キーボードで立て板に水の目の覚めるような即興演奏ができる人のほうが、はるかに達人で尊敬されるのだ。 

超一流のケンバニストさんやピアニスト(ピアノ専門)さんがエレピや電子キーボードを弾く場合、その演奏はやはり超一流だ。 弘法は筆を選ばない。  

 

④ 素人くさい演奏と、本物のプロの演奏と、どこが違うのかがわかる  

自分の演奏動画を撮って見てみると、どこが一流以上のプロの演奏と違うのかに気づくことができる。 私が思う、一流以上のプロと二流以下(素人を含む)の演奏の違いは:

 (1) タイムキープ能力(拍子感覚): 一流以上のプロの演奏は、拍子が正確無比でピシッ!と決まっていて、しかもリズム感がキレッキレ! これに対して、二流以下の演奏は、走る、だれる、焦る、舞い上がる、演奏する自分に酔いしれて自分を喪失してあとは勢い任せ! その結果、拍子やリズム刻みがぞんざいになって、雑でルーズに聞こえる。 そのあたりに、素人っぽさが匂うのだ(と自分の演奏動画を見てつくづく感じたよ...)。 「神は細部に宿る」というが、音楽に関しては、「拍子とリズムを正確に刻めるかどうか」は確実にその「細部」だろう。

 (2) 演奏時の動き: 一流以上のプロは、小さい演奏動作によって規模の大きい音楽を創出する。 つまり、指や手や腕をあまり動かさずにスケールの大きい音楽を演奏する。 一流以上のプロは、ものすごい音数を高速かつ大規模で鳴らしている割には、腕から指先にかけての動きが少なかったり、肩~肘~前腕にかけて盤石の安定感があったり、指を激しく動かさなくても数オクターブにまたがる高速パッセージを涼しい顔で弾くというか、紡ぎだす音楽の熱量の大きさの割に、演奏動作が冷静沈着。 つまり、クールだ。 こういった一流以上のプロは、たった一人で涼しげに演奏しているのに、「連弾ですか?」みたいなスケールが大きく豊かな音楽を創出する。 非クラシックのジャンルではバンドメンバー間の化学反応などでノリノリの動きになることもあるが、一流以上のケンバニストは、どんなときにも正気の目をしていて、自分が今何をどうやっているか醒めた視点から見下ろしながら演奏している。 つまり、自分が創出する音楽がヒートアップしても、頭は冷静沈着で、自分がやっていることを完全把握している、クールな状態なのだ。しかも、鍵盤に指が吸い付くように演奏している。「鍵盤に指が吸い付いている」かどうかが、私が着目するポイントだ。 

これが、二流以下になると、まったく逆の状態になる。 これ見よがしに腕をヘビのようにくねらせたり(あれは何かの呪(まじな)いですかね?)、常時肘を大袈裟に回しながら演奏したり(これも何かの呪(まじな)いですか?)、鍵盤をたたく手や腕の動きがヒラヒラヒラヒラと無駄にせわしなかったり(鍵盤の上で指や手のひらが蝶々みたいにヒラヒラヒラヒラ舞っている演奏のこと)、鍵盤に手や指を常時たたきつけるような「情熱的に弾き放つ!」系の演奏だったり、下手な役者の演技のように無駄に身体をぎこちなくヒョコヒョコ動かしたり(クラシックの人がジャズやポップスを弾くときに見られる滑稽な動きのことです)、力任せ&勢い任せの一本調子だったり、そんな自分に酔いしれて我を失った独りよがり演奏だったり、「いったい何の欲求不満を抱えているんですか?」と思うような、欲求不満を鍵盤に叩きつけて解消するような弾き方だったり、と、大袈裟で慌ただしくヒラヒラヒラヒラと落ち着きが無く、何かにせきたてられるように弾き放つ欲求不満ブチマケ感のある感極まった演奏動作なのだが、その大袈裟かついろんな意味で振り切れまくった演奏動作の割には、大した音楽を奏でていない。 言い換えれば、二流以下のピアニストは、演奏動作がクサくてイッちゃっている。 クサくてイッちゃっている割には、奏でる音楽が小規模で味気なくてつまらない。 そして、大の大人が弾いているのに、「ピアノの発表会弾き」というか「何かに弾かされている」感があるというか、つまり演奏がガキっぽい。 要するに、演技過剰で感極まった無駄に暑苦しくイッちゃってる演奏動作の割には、紡ぎだす音楽が、寒い。   

(3) 打鍵の精密さ: 一流以上のプロは、ミスタッチをほとんどしない。 そして、一流以上のプロは、【意図した音に指が届かずに音がかすれたり、勢い余って隣の鍵盤まで弾いてしまったりという、「ちゃんとわかっているんだけど指が正確に叩けなかった」系のミス】が、極めて少ない。 一流以上のプロも「勢い余って隣の鍵盤まで叩く」ことがあるが、彼らは、自分が何をしているかちゃんとわかっていて、自分の本意でそれを行う。 自分の、エキサイトして時に勢い余った演奏が、お客さんに感銘を与えてお客さんを喜ばせるのを、知っているのだ。  これに対して、二流以下の実質素人~文字どおりの素人になると、「ひっかけミス」は無論のこと、「勢い余ったミス」を自分で意図していないのにやらかし始める。 つまり、二流以下は、自分の演奏をコントロールできていない状態で演奏するから、自分が意図しない「残念なやらかしミス」を不本意にやらかしてしまうのだ。 私も、3分足らずの曲で、このような【わかっているのに「届かなかった」や「勢い余った」や「指に力が足りなかった」系のひっかけミス】を3回ぐらいやらかす。 だから、「どうしてそうなるのか?どうして一流以上のプロはこのような打ち損じをほとんどしないのか?」について、一流以上のプロのケンバニストさんたち(ピアノ専門者を含む)の動画を視て、ずっと思いを巡らし続けている。 

そして感じるのは、彼らの多くは、生まれながらにして、労することなく「届く」人たちであるということだ。 一流以上のプロには、ケンバン楽器を弾くために理想的な手を持って生まれてきた人たちが多い。 つまり、指が長かったり手が大きかったりして、片手で10度の和音をバラさずに同時に弾くことができる人たちだ。 どうして片手で10度の和音を同時に弾けるとケンバン弾きとして理想的なのかについては、ピアノを習っているのなら、自分のピアノの先生に聞いてみると良い。私が「この曲、深みと広がりがあっていいな~、どういう音構成になっているんだろう?」と魅了される曲のその魅力的な部分には、そのケンバニストさんは10度のコードを弾いていることが多い。 そして私は、絶望的に納得するのだ。 私が今まで弾いたことが無く、今後も絶対に弾くことができない、豊かな響き。 このような、生まれながらに「届く」ケンバニストさんたちは、「届く」から、演奏動作で手元に動きが少なく悠然と弾いている。 だってさ、届くために手を左右に動かす必要がとても少ないから。 あらじめ鍵盤の真上に指が既にあれば、真下に下せば必ず叩ける。 実際に、「届く」ケンバニストさんたちは、その長い5本指を蜘蛛の巣のように鍵盤上に広げてオクターブ音域を「完全に捉えた」状態というか「完全に覆った」状態で弾く。 そして、レンジ(音域)が移動する時に初めて、腕を動かすことによって手のひらを左右に移動させ、レンジを移動したあとは再びその蜘蛛の巣のような5本指でオクターブを完全に覆ってしまって、手を左右に動かすことなく鍵盤を弾く。 一方、手が小さかったり指が短かったりして、届かない人は、オクターブのレンジ内で常に手を高速に水平移動させて鍵盤領域をカバーするしかない。 片手で10度に届かない一流以上のプロたちは、おしなべて、この水平移動が素早く、しかも打鍵が丁寧かつ正確なので打ち損じが無く、加えて、創出する即興演奏や自作曲の音楽性が非常に高いので、「届く」同業者たちの中で自分の見世を張り続けていられるのだろう。 

10度以上が「届く」人たちの演奏でもうひとつ特徴的なのは、彼らは、基本的に手をすぼめながら弾いている点だ。 「ウルトラQ」にガラモンという怪獣が出てくるが、私には、「届く」人たちのピアノを弾く手がガラモンの手のように見えることがある。 ガラモンは、指がとても長く、しかも、指の間を広げることがないので、いつも手が異常に長く見えるのだ。 「届く」人たちは、手を広げずにオクターブのユニゾンを連打できるぐらいだから、もっと狭い6度ぐらいになると「届き過ぎちゃう」ので、基本的には常時手をすぼめて弾く必要があるだろう。だから、私にとってはガラモンの手のように見えることがあるのだろう。 これに対して、私のような「届かない人」は、基本的に、常時手を広げながら弾いている。 「届く人」は常時手をすぼめながら弾いている。 この差はとてつもなく大きいと思う。 なぜなら、人間の手は「すぼめる」ほうが「広げる」よりも簡単だと、私は思うからだ。 「自分のテリトリーの外に存在する届かない場所に広がろうとする動き」と、「自分のテリトリーの中に有る既に届いてしまっている場所に戻ろうとする動き」と、どちらが筋力を必要とするだろうか?  自分にデフォルトの能力が無いのにその能力をストレッチして「自分が届かない場所」へ届こうとするのと、自分に十分にデフォルトの能力が有るうえにその能力をわざわざすぼめて「すでに自分の手中にある場所」に労せず届くのと、どちらが確実性があるだろうか? 

届かない二流以下の演奏は、常時手を広げながら演奏しなければならないうえに、手の水平移動スピードが曲のスピードに間に合わないので、打ち損じが起きないように、意図した鍵盤の真上に指が到着したことを確認してからキーを叩く。 その際に、「丁寧弾きによるタメ」が生まれてしまう。 よく、手が小さいと思われる二流以下のクラシックピアニストにありがちな、「焦って弾いて音がかすれるよりも、鍵盤の真上に指を確実おいてから鍵盤を叩くようにして、丁寧にしっかり弾きましょうね」的な演奏になってしまう。 この演奏が、いかにも素人っぽく見える。 一流以上は、「ほら私はこんなに丁寧に弾いているんですよ!」な圧(あつ)が皆無の、変なタメによるクドさが全く無い音楽を涼しい顔してサラッと弾いているにもかかわらず、打鍵が丁寧だ。 

届かない人はどうしたらよいか? そこで、届かなければ、ハーモニーにおいて重要度が低いインナーヴォイス(内声)側の「音を省略する」ように指導されることになる。 私がピアノを再開したときに一時期再び習った、子供の頃に習っていたピアノの先生は、私がビッグコードを打ち損じるのを聞いて、「音を減らさないと!」と言った。 ところが、弾く音を減らすと、それだけ、ハーモニーの豊かさを犠牲にするので、音楽のリッチさが減って貧相になる。 ピアノ教師というものは、「正確無比に鍵盤をたたくこと」を優先させて、「音楽の豊かさ」を犠牲にするというポリシーを持っているのだ。 これは、「ミスタッチ ⇒ コンクールで減点対象になる」からだろう。

私は、複雑で豊かな音楽に憧れていて、なんとか自分で複雑なビッグコードを弾いてそれを実現したいと思い続けている。 姿勢の試行錯誤も、何とか演奏動作の効率を上げて、自分の頭の中にある複雑で豊かな響きを打ち損じなく自分で弾きたい!という思いだけで続けている。 それに、「姿勢が良くなると動作効率が上がるだけでなく、身も柔らかくなって、手が広がるようになって、もしかすると10度に届くようになるかもしれない!」と夢想している。 というのは、過去に一瞬習った一流ピアニストさんの手を見せてもらったら、男性なのに手がそんなに大きくなく指もそれほど長くもないにもかかわらず、手がタコのようにビュワッ!と広がって10度が届く人だったからだ。 ほんとにね、そのピアニストさんが見せてくれた手がさ、タコみたいに5本指がビュワッ!と広がって、私はウヒャッ!て驚いたんだよ! 「うわ~!一流のピアニストの手って、こうなんだ~!」ってビックリしたんだ。 それだけじゃない。そのピアニストさんは、私がポップス曲のクライマックスのパートの右手メロを単音で自信なく弾くのを見て、「クライマックス部分のメロディ、右手をオクターブのユニゾンで弾けないかなあ?届かないって?いや届くでしょう!」って言ったんだ。 そして、ピアニストさんにそのようにおだてられたら、届いて弾けちゃったんだよ! その時「やっぱり一流は違うな~!」と心の中で感嘆したのは、じつは、そのメロディ、私も最初のうちはオクターブのユニゾンで弾いていたんだよ。 オクターブのユニゾンで弾くほうが断然盛り上がるしカッコイイのは、私だって最初から分かっていたんだよ! ところが、子供のころのピアノの先生に「届かなくて上手く弾けないのなら音を減らさなきゃダメ!」と言われているうちに、わずかに残っていた自信もすっかり失ったのと同時に、手も縮こまっちゃったのかもしれなくて、そのパートも「どうせ届かなくてミスタッチするから、残念だけど単音で弾くのでいいや...」ってあきらめて弾いていた箇所だったんだよね。 その一流ピアニストさんは、そのまさに、その箇所を、ピンポイントで指摘したんだ! しかも、こちらをおだてて、弾けるようにしちゃったんだよ! いや、おだてたのではないと思う。 カチコチに縮こまった手で怯えたように自信なく弾く私の演奏を見て、「この人は本来は届くだろう」と思ったからそう言ってくれたんだろう。 一流は教えるのも一流だ!と、もう本当に驚嘆敬服したよ! 以来、私は、「人間は誰でも、もともとは、このピアニストさんみたいに手のひらの肉が柔らかくて指がビュワッ!と広がるのかもしれない。だけど、誰かにダメ出しされ続けて自信を強奪され続けると、身も心もますます縮こまって固まってしまって、手もコチコチにこわばって広がらなくなってしまうのかもしれない。ということは、もしかすると、9度が届く私も、前向きに試行錯誤して続けていけば、いつかはこのピアニストさんみたいに、手がビュワッ!と広がって10度が届くようになるかもしれない!」ってちょっと夢見るようになったんだよね。 だから私は、できる範囲で、体ほぐしを続けているし、即興演奏やアレンジにおいて、無理をしがちだ。 届くかどうか微妙な距離なのに、「いつか届くようになるかもしれない!」と思って、なんとか届こうとする。 それが打ち損じのヒッカケミスを生むことも、わかっている。 だけど、音を抜くと、あまりにも味気なく貧しい響きになってしまうことも、わかっている。 今回の人生がオープンポジションコードを一度も弾くことなく終わるだろうことも分かっている。 これからますます歳をとってますます動かなく届かなくなっていくことも、わかっている。 だけど、自分でできるかぎり、自分が意図する響きを出すために、届こう!としていきたいと思っている。 もちろん、届かないものは、どんなに頑張っても、届くことはない可能性が有る。 カエルがどんなに高く跳びあがっても、夜空の月をつかむことはできない。 だからといって、自分の手のひらを切り刻んで夢を叶えようとは思わない。自分の身を自ら傷つけるのは自傷行為だからだ。自傷行為は自分で自分の存在を踏みつけることだ。そして、自傷行為が行き着く先は自己否定。必ず魂を病むことになる自殺行為だ。 自分の手のひらを傷つけてまで自分の夢を追おうとするのは、自分を粗末にすることだし、そもそも最初っから負け戦(いくさ)だ。 だって、そんなことしなくても生まれつき届いちゃう人たちがたくさんいて、その人たちがすでにしのぎを削っているんだから。 だから、手のひらを切り刻んだとしても、現実の世界で必ず敗北することになり、ますます精神を病むことになるだろう。 こういう残酷なことが起こるのは、大作曲家の作品の楽譜という「規定演技」によって優劣をつけられるクラシックピアノの世界だ。 一方、本人の創造性がメインとなる非クラシック分野では、手が大きくなくても、その人しか表現できない音楽を創出して第一線で成功しているピアニストたちがたくさんいる。 このような、自らが作曲家となった非クラシック分野のケンバニスト(ピアノ専業を含む)のほうが、誰かの作品の楽譜の再現演奏しかできないクラシックピアニストよりもずっと偉い、本来の意味での音楽家だと、私は思っている。 このような自らが作曲家であるケンバニストさんたちの多くが音楽監督業務も行う、実際に偉い存在なのだ。 私が音楽文法を探求するのは、届かないなかで、少しでも豊かな響きを作り出してそれを自分で弾いてこの世に実現したいという、前向きな欲求があるからだ。 笑顔で試行錯誤しながら、自分の頭に浮かぶ音楽を自分で実際に物理的な音にすることを楽しみながら、これからも死ぬまで、いや死んだ後も、ずっと続けていく。

 

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