前回の記事で、鴨長明(かものちょうめい)さんが800年前の鎌倉時代初期に書いた『方丈記(ほうじょうき)』の中に、大人の楽器趣味の神髄がこれ以上なく端的に言い切られている!ことを書きましたが、
吉田兼好(よしだけんこう)さんが700年前の鎌倉時代末期に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』も、大人のピアノ趣味というか楽器趣味というかあらゆる趣味道楽一般というか、はっきり言って仕事も日々の生活も社交も他のことに関しても、つまり人生全般において含蓄のある金言が満載だった!
そんな吉田兼好さんの『徒然草』から、私がピアノ的にというか大人の楽器趣味的に心を打たれた金言の現代語バージョンを、つれづれなるままに書き連ねていくよ!:
① 改めてもメリットが無いことは、改めないのがよかろう。
これは私も経験ある。30年以上ぶりにピアノを再開したとき、子供の頃に持っていた半音刻みレベルの粗い絶対音感が、半音~全音ズレてしまったのに気が付いて、それから狂ったように絶対音感ドリルをやったけど、ぜんぜん元にもどらなくて発狂寸前のところまで行ったとき、「ストラヴィンスキーやコルトレーンや日本のとある超一流ミュージシャンさんも相対音感オンリー!」ということを知って、「私ごときが絶対音感がズレた悲愴!なんて悩むこと自体がバカバカしいや!」って思ってドリルするのをやめちゃった。 その後何年か生暖かくピアノを続けた現在、絶対音感が復活してきたうえに、相対音感も獲得して便利! ズレてしまった絶対音感を改めようとドリルをやってメリットが無ければ、無理にそのズレを改めようとしなくても、楽しく夢中で続けているうちに、自然と音感が戻ってくる+さらに磨かれる!と、個人的に思いました。 改まるものは、やがて改まるものなんですね。 それから、ピアノを弾く手の使い方についてもそう。 言われたとおりにやっても全然できないと、心が焦って固まるから体もコチコチに固まってしまって上手くいくはずがなく、「できないできないできない!地獄」に落ちていくばかりで、ちっともメリットがないばかりか、かえって悪影響。 だったら、しばし忘れて、日常生活全般の動作や姿勢に気を配って体を柔らかくほぐそうと何年も続けているうちに、ピアノを弾く姿勢もだんだん変わってきて、ある日ふと、言われた手の動きに自然になっていたよ!ということが、私の場合は起こりました。 つまり、日常生活の姿勢や動作ありきの、効率的な手の動きなんだと、思いました。 だから、おおもとのことが整っていないのに末端の手先を狂ったように直そうとしても、直るわけがないんだな、レッスン時のああいう口頭の指導の意味ってあるのかな?って、思ったりしました。
吉田兼好さんは『徒然草』の中で、兼好さんの心に刺さった、とある高僧の言葉も紹介していて、それは:「しようか? しないでおこうか? と迷うことは、たいがい、しないほうがいい。」 ← 私の場合、「ピアノ再開時のリハビリにピアノの先生に勧められたツェルニー100番をやろうかな、やらないでおこうかな?」と迷って、結局やりませんでした。 そして、ポップスやジャズといった20世紀以降の音楽をやりたい私にとって、「クラシック訛り」の元凶になるツェルニーをやらなくてよかったと、心底思います。
② 簡単だと思う箇所に限って油断してミスをするものだ。
これは、木登り名人の言葉から兼好さんがインスパイアされた金言だ。 兼好さんによると、蹴鞠(けまり)もそうなんだって。 難しい技を決めた後で、何でもないところで鞠(まり=ボール)を蹴り損なう。 今のサッカーもそうだろうね。 ピアノでも、自分がまだ慣れていない箇所は注意して弾くから間違わないけど、難所を弾き終わった直後の「ラクショー(楽勝)!」と思っている箇所に限って、どういうわけか演奏中に頭の中が真っ白になって弾けないことがある。
③ うわべだけでも賢者をお手本に真似している人は、賢者といっていいのである。
「超一流のピアニスト/ケンバニストの〇〇さんの弾き方を真似して弾いている、ですって?あなたには100年早いわよ!」って言われても、気にしないでスルー。 自分のレベルに関係なく、超一流の人や物に接して超一流の内容を吸収するのが、賢者の流儀だ。 それよりもさ、「100年早い!」なんて言ってる目の前の人、あなたは今月いったい何日ピアノの演奏仕事が入っていますか? 兼好さん的に言うと「超一流の演奏のプロを手本に真似している人は、賢者といっていいのである。ロクに演奏仕事もしていない実質素人の'なんちゃってプロ'の演奏を真似している人は、愚者\(^o^)/といっていいのである。」
④ 自分の身の程を知って、できそうもないことはすぐにやめるのが、分別の有る行いである。
③とはいっても、超一流のプロのピアノ演奏を真似る際には、自分の身の程を知ることが大切だ。 具体的には、手の大きさやリーチ。 片手でようやく9度に届くか届かないかなのに、左手で10度超のアルペジオを時を忘れて弾きまくったり、跳躍幅の大きいベースラインを夢中でガンガン弾きまくったりして左手の小指がおかしくなった私は典型的な愚者\(^o^)/です。 それから、自分の年齢の程を知ることも大切かもね。 若い頃に比べて、覚えるまで時間がかかるようになって、ますます体が動かなくなる年齢で、今が盛りの年齢のピアニストと同じように弾きたいからと毎日まいにち何時間も猛烈に練習しまくったら、指を壊すだろうからね。 兼好さん流に言えば「無理した結果、指を痛めて、もっと弾けなくなるのは、分別の無い愚者\(^o^)/の行いである!」だね。
そんな大バカ者の愚者\(^o^)/の私が指を痛めたトホホな顛末は ➡ ピアノを買う前に(私が個人的に)押さえておきたかったポイント(その③) - ピアノ方丈記
⑤ すでに国産品が十分良いクオリティなのに、遠い外国からわざわざ輸入して有難がるのはバカバカしいことだ。「遠方の物を宝としない」とも、「手に入りにくい宝は有難がらない」とも、物の本に書いてある。
これをピアノに当てはめると: すでに国産ピアノが十分良いクオリティなのに、遠い外国からわざわざ輸入して輸送費用からセレブな場所にあるラグジュアリーな日本総代理店ショールームの設営運用賃からブランドのプレミアムまでテンコ盛りに盛られた高額な値段の高級輸入ピアノを有難がるのはバカバカしいことだ。「遠方のピアノを宝としない」とも、「手に入りにくいピアノは有難がらない」とも、物の本に書いてある。(← 国産メーカーが輸出品と国内向けの間に変な品質差をつけていないのであればね。たとえば、同じブランドの同じモデルにもかかわらず、響板に高品質の国産材を使っているのは輸出して、国内向けの響板には安価な輸入材を使うような、ね。)
⑥ プロと素人の違い。プロは油断することなく慎重に行うが、素人は「自分は上手いから」と得意になってリスクをかえりみずにやって墓穴を掘る。
一流ピアニストさん(ピアノの先生の先生だけど素人愛好家にもレッスンしてくれる)に一瞬習って発表会に出た時のこと。 主にピアノの先生たちが(生徒として)出演する第2部の「プロ(というか実質シロート)の部」が終わった後に、別格扱いとして、その一流ピアニストさんの直弟子の若手ピアニストさんが弾いたんだけど、スローテンポの(簡単そうに聞こえる)小品をサラッと弾いただけだったよ。 ところが、その若手ピアニストさんのピアノの音が、別格に違った! 同じピアノとは思えないほど、目の覚めるような、艶やかで愉悦にあふれた音だったんだよ! 演奏のプロの演奏の音は、演奏のプロの演奏の音だった! これに対して、「プロ(というか実質シロート)の部」はバンラバラバラの超難曲や大作の決死の演奏が目白押しで、その割にはピアノの音はモコモコと冴えないし、どれもこれも、ぎこちなくて味気なくてイッパイイッパイの「生徒の演奏」だった。
【20230610に追記】上記④とも関連するが、素人はとかく得意になってリスクを顧みずにやりすぎて墓穴を掘ることの、典型的な例が、ピアノを弾き過ぎて指を壊すことだ。 これは、実質的な演奏仕事をほとんどしていない「自称プロ」のピアニストにも見られるのではないか。 吉田兼好さんは『徒然草』の中で、乗馬の達人がいかに馬選びに慎重で用心深いかについて、描写している。 『徒然草』の中には、「ある乗馬の達人が別の人の乗馬を見て『あの人はいつか落馬するだろう』と予言したら後日それが的中した!」という話も載っている。 同じように、真のケンバンのプロフェッショナルは、他の人のピアノ演奏を見て「あの人はいつか指を壊すだろう」ってわかるんだろうなぁ、と、思った。 本物のプロのケンバニストは、音楽産業で連日連夜フル稼働しているから、「日頃無理をして指を壊せば、自分を雇ってくれたクライアントに満足してもらえる仕事ができずに、クライアント(=業界)の信頼を損なう」という、合理的な妥当性の有る非常に用心深い心理が働くので、素人や実質プロのような無茶な演奏をしないのだろう。
典型的な大バカ者の素人の愚者\(^o^)/の私が指を痛めたトホホな顛末は ➡ ピアノを買う前に(私が個人的に)押さえておきたかったポイント(その③) - ピアノ方丈記
⑦ 第一の目的以外の一切を棄てて、その目的だけに励むとよい。「何ひとつ捨てたくない!」という態度では、結局、何ひとつ達成できない。あれもこれも取ろうとすると、あれも得られずこれも失ってしまうものである。
人生設計がそうだね。「仕事して、結婚して、子どもも産んで...。」と、あれもこれも取ろうと思うと、どれかが満足にいかないかもしれない。 人間、だれでも一日は24時間だからね。 仕事をバイトや内職程度にするか、キャリアをばく進して結婚生活や子どもに支障がでるか、あるいは自らの健康を損なうかもしれない。 仕事では、クラシックピアノもジャズピアノも教えます!と欲張ると、結局どっちつかずになって、クラシック専門の人やジャズ専門の人に負けてしまうだろう。 それから、「超一流のケンバニストの〇〇さんがケンバンばかりかギターも弾くそうだから自分もやろう!」と思って自分の専門以外の他楽器に手を付けてメリットがあるのは、とんでもなく超一流のプロか、お気楽なシロートだけだろう、と思う。 その両極端の間にいる、特に「普通のプロ」のひとたちは、まずは自分の専門の楽器で少なくとも一流以上になることが先決ではなかろうか。 ケンバンのほかにギターなどの他楽器もやるケンバニストさんたちを見てごらん、みんな例外なく、ケンバンの表面はもとよりケンバンの間やケンバンの裏までも知り尽くした、つまり音楽というものの表も裏も知り尽くした、その上に、連日連夜ケンバンの演奏仕事や作編曲や音楽監督の仕事で引っ張りだこの、超一流のプロ中のプロの人たちだ。 このような楽器横断的な超一流の他に、アコピだけとかケンバン楽器だけとか一種類の楽器で超一流のプロが既に存在するのだから、音楽というものを知り尽くすまでに至っていない「普通のプロ」は、何はなくとも自分の専門楽器で生き残れることが先決だろう。
⑧ 一切の物事は、信用するに足りないものである。
「手の形は卵型にして」や「指を一本一本しっかり上に上げ下げして弾け」という教えは、今はどうなってるんでしょう? 今は違ったふうに教えているんだったら、当時生徒だった私は「あの時の(親が払ってくれた)月謝代を返せ!」だね。 もっとも、この世のあらゆることは、そんなもん。 昨日正しかったことは、今日はもう間違っている。 一切の物事は、信用するに足りないものです。 だから、何事につけても、自分のアタマで考え、吟味・検証して、自分なりの考えを持って主体的に進むことが、大切だと思います。
⑨ 未熟でぎこちないうちから、上手な人たちに混じって笑われながら、それを恥じずにかまわずやり通していく人が、最終的に芸に秀でて、名声を得るようになる。
700年前の鎌倉時代末期に、すでに明らかになっていた、上達の極意。 ジャズピアノが上手くなりたければ、セッションで毎回恥をかきながらもヘコたれずに参加し続けるのが、王道なんだね。 クラシックピアノの先生方が後付けでジャズピアノを「勉強」して教えようとしても絶対に無理な理由も、これです。 なぜなら、ひとたび先生様(さま)のご身分になると、人前で失敗して恥をかくことが許されなくなってしまうからです。 大学卒業と同時に先生様(さま)のご身分になってしまうと、実社会で雇われ仕事をしていろいろな失敗をして人前で恥をかきながら一人前の社会人に成長していくという、社会人になるために必須の通過儀礼を経ないで先生様(さま)になってしまったので、一般の社会人から「世間知らず」と笑われるようになってしまうのです。 何かの技芸の「先生」になりたい場合は、恥をかける若いうちに実社会に飛び込んで、技芸の実演によって世間様からおカネを頂戴するプロ活動に長年従事してからじゃないと、「先生」として信用されません。 ぶっちゃけ「先生業」とは、プロの技芸者が、老化とともに技芸の実演でおカネを稼ぐことが難しくなった人生の後半頃から始める、いうなれば「年金」のような稼業だと、私は思っています。 大学を卒業したての人なんかにビジネスマナーを習いたいとは思わないでしょう?同じことです。
⑩ 夜空の月も、満月になった途端に欠け始める。
「今日は演奏する姿勢がキマッてとても弾きやすかったし良い音が出たよ!」と思った次の日には、もう元に戻ってしまっているんだよね。 「今日は思いがけず良いアドリブが出たよ!」と思った次の日にはもう、そのアドリブを思い出せない...。 「上手くいった!」と思った瞬間に、もう上手くいかなくなっている。 でも、その次の日には、わずかながらもっと良くなっていて、ちょびっとだけ大きくなった新たな満月になっているかもしれない。 そして、その新たな満月も、そうなった瞬間に欠け始める。 そして、そのまた次の日には...。 こうして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、長い年月をかけて、大きくなっていくといいね。
さいごに、
⑪ 1円は僅(わず)かな金額だが、それを積み上げれば、貧しい人も大金持ちに成る。
「なんでこれがピアノに関係あるの?」と思う向きもあるかもしれないが、大いに関係あるよ! ピアノはおカネが無いと買えないからね。 ピアノは買えても、ピアノの代金以上におカネが無ければ、置き場所も用意できないし、アコースティックピアノなら定期的な調律も受けられない。 ピアノを買って、家に置いて、それを維持するために、いかにおカネを調達し続けるか?が、実はピアノ趣味をずっと続けるために最も必要な要件なのだ。
兼好さんのこの金言⑪を、明治~昭和時代にかけて体現した、超ドケチ節約貯金生活➡時代の機を捉えた投資で超大富豪になった本多静六さんについてはこのリンク先の記事で書きました⇒ピアノと日本の古典文学 - ピアノ方丈記
※ 上記の『徒然草』からの引用文は、佐藤春夫氏の現代語訳をベースに、私にとってわかりやすいように、言葉遣いを今風に適宜アレンジしています。
上記のように、金言が満載の吉田兼好さんの『徒然草』ですが、私にとって『徒然草』は、偉いお坊さんや貴族のトホホなやらかしを淡々と綴るエピソードの数々が、何といっても笑える。 キレやすいとても偉いお坊さんの話とかね、こういう、地位が高いのにキレやすい人って、周りの人が困るんだよね~、だから陰であだ名がつけられちゃうんだよ。 それから、いかにも崇高で深淵な意味がありそうな事象って、単に近所のガキがふざけてやっただけのことだったりするんだよね。 それに、人間だれしも、楽しい宴席で酔っ払ったら、手近にある物を見境(みさかい)無く頭にかぶって踊り出したくなるものだし...。 そして、兼好さんがリスペクトする法然上人(ほうねんしょうにん)に至っては、その有難い御言葉がシャレなのかマジ(で天然)なのか、もはや見分けがつかないほどのレベルだから、聖者になったんだろうしね。 人間って、700年前も今も全然変わらないし、700年後の未来になっても相変わらずこんな感じでやってるんだろうね。
『徒然草』には、吉田兼好さんが生きた鎌倉時代末期の日本の音楽について詳細に記録したくだりもある。 兼好さんや当時の人たちは、当時の音楽をどんなふうに感じて聴いていたんだろう?って、思いを馳せずにはいられない。 私も生きているあいだに、兼好さんと同じ気持ちを味わいたい。 そのためにあと何年かして西洋音楽をザックリだいたい解ってから、満を持して日本の伝統音楽をディグ(dig)っていこうと思っています。
大人の楽器趣味の神髄をこれ以上なく端的に言い切っている鴨長明さんの『方丈記』に関する前回の記事は(↓ ):
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