音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

「音楽」の「楽」

 

安田登氏の『日本人の身体』を読んでいたら、

「音楽」の「楽」の語源が書かれていました。

 

「楽」には、オドロオドロしい、呪術的な意味があるそうです。

 

その通りだと思います。

 

音楽は、究極的には、地面を踏み叩いたり、声を発したり、木や動物(や人間)の骨や革(皮)を叩いて鳴らしたりする、森羅万象の振動の集まりであり、

 

音楽の発生源は、リチャード・ドーキンズ氏が言うところの「エデンから流れる川」のスープの中から発信される振動である、と思います。

 

それが、こっち側と彼岸の間に流れる、川なのでしょう。 キリスト教の「原罪」を背負った人間にとって、この川の向こう岸に鳴り響いている理想の音楽を奏でることが、いかに不可能に近いことか...(とくに、キリスト教化後の西洋人にとっては。だから、未来永劫「holy savage」という概念を超越することができない(もともと、古来からの日本民族にとっては、簡単なことなんだけどね。アフリカ系の人も、私たちとは違った境地で、それができている、と思う))。

 

音楽の具体的な発信源が、ミトコンドリアなのかどうかは、わかりませんが、

 

だからこそ、古事記で、アメノウズメが、あのような踊りをしたのだと思います。  ヨーロッパの、L’isle Joyeuseも、原点は同じです。  それが、芸術の原点です。

 

キングコング西野亮廣氏が言うところの「芸人」のとらえ方に、同意します。

「芸」とは、そういうことだと思います。

「芸術」は、「学術」ではなく、ましてや「趣味」の次元とは大違いの、

世の常識に抗(あらが)って、自らの存在を激しく燃やしていく道なんだなぁ、と、圧倒されます。

芸術とは、世の中からの激しい批判や攻撃や取り締まりに抗(あらが)いながら、常識/非常識や、正気/狂気や、快/不快や、美/醜の、ギリギリのラインを攻めてゆく活動であり、基本的に、「お行儀見習いのお手習い」や「優雅な趣味」とは全く相容(あいい)れないものなのです(だからこそ、「下手(ヘタ)」なことが良い場合が、大いにあるわけです)。

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芸術家は、本当に少ないなぁ、と思います(「芸術家」気取りのほとんどが、術家、または、イカレポンチの、どちらかだ。真のキリギリスへの道は、茨(いばら)の道だから(とくに経済的に))。

  

以前に書いた、下記の記事の追記として書きました。 西洋音楽にとってのgene配列(世界的にはそれほど複雑ではないだろうが、それでも複雑)を刷り込むべく、かれこれ2年が経ちました。 年相応に、高望みしないで、小さな一歩を積み重ねて、「〽三歩進んで、二歩下がる」でやっています(これが、進歩のパターンのデフォルト)。 

 

Bartok  のMikrokosmos Volume 1 を12キーでやり終えて、いまは、Volume 2 のどこまで12キーで進めるかをやっています。 でも、内田樹氏の『修業論』にあったと思いますが、練習の進み具合や達成度合いを数値で管理しているうちは、進歩することは絶対に無いそうなので、心のままに、楽しんで、ブラブラやっていきます(そうすると、ほんとうに、予想外の嬉しい驚きがあったりするんだと、実感します)。 (武田鉄矢さんって勉強家なんだね。参考にしています)

 

そして、スポーツでも武道でも書道でも楽器でも舞踊でも、どんなものでも、最小単位の型(かた)が、基本のキなんだなぁ、と実感しています。 

 

点から線へ、線から面へ、いつか、面から立体へ立ち上がっていくことを、夢見ています。 それを経て、立体から面へ、面から線へ、線から点へと、そぎ落としていくと、「芸」になっていくんだろうなぁ、と、想像します(←う~ん、我ながら名言!)。

盛(も)っているうちは、「芸」にはなっていない。

 

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