以下は、20211011にアメブロに書いた記事:
前回の記事
の続き。
3歳からニューヨーク市の中心部マンハッタン島の、
しかもアメリカ舞台芸術の殿堂リンカーンセンターの真裏で育った
生粋のマンハッタン子といえるセロニアス・モンクは、
NYジャズを象徴する存在である。
ニューヨーク市は、
中心部のマンハッタン島、
北部のブロンクス地区、
イーストリバーの川向こうの北東部クイーンズ地区、
イーストリバーの川向こうの南東部ブルックリン地区、
マンハッタン島の南の海上に立つ自由の女神のさらに南方に位置するスタテン島(東京の「夢の島」みたいな場所だが、ゴミを埋め立ててできた人工島ではなく、もともと天然の島なのだがマンハッタンから出るゴミの投棄場所になっている)の、
5つの地区から成っている(と記憶する)。
マンハッタン島は、さしずめ東京の山手線の内側の地域に相当するだろう。
また、
マンハッタン島だけで、韓国またはメキシコ一国分のGDPを稼ぐ、
ちなみに、
大江千里さんが住んでいたり、先進的ミュージシャンが出演するジャズライブハウス The Stone があるのは、ブルックリン地区である。 ブルックリン地区は下北沢というか渋谷区~世田谷区的な雰囲気があるのかな? シンディ・ローパーを輩出したクイーンズ地区は、中野区~杉並区的な、中央線的な雰囲気があるかな?いや違うな。中央線的な雰囲気もブルックリンにあるような気がする。 ブルックリンには浅草橋的な雰囲気もあるかな? ブルックリンに行ったことがないから想像できない。 モンクのキャリアの飛躍のきっかけになった Five Spot Cafe があったマンハッタン島の南地区には、中央線文化に似た雰囲気もうっすら感じられた。
話をもどして、
世界一の都会の、しかもジャズの中心地のひとつであるNYのド真ん中で育ったセロニアス・モンクが、
クラシック愛好者は言わずもがな、
一部のジャズ好きからも敬遠される存在であることが、
私にはまったく理解できない。
おそらく、モンク嫌いのジャズ愛好家は、上辺だけの愛好家なのであろう。
だが、こういう反論もあろう:
「モンクが都会的? そんな筈はない!
モンクの音楽といえば、
ガチャガチャ、ごちゃごちゃ、トゲトゲじゃないか!
あんなものが、都会的とは笑止千万!
都会的というのは、スタイリッシュでスマートで華麗な...」
そうよ、そこそこ!
そこが、そもそも違うのよ!
本当の「都会もん」に限って、「都会的」なイメージから程遠いんだよ。
「都会的」というのは、
都会の外に住んでいる人が抱く、都会のイメージである。
そして、
その都会の中に長年住んでいる人は、「都会的」というイメージすら沸かないのである。
だって、現実にその中に住んで、現実に日々生活しているから、わかりようがないのである。
だから、
都会の中心部に長年住んでいる人に限って、
ちっとも「都会的」ではない小地味でそっけない身なりで平気で都会のド真ん中を歩いているものである。
彼らは観光客じゃないから。
居住者だから、転地効果を楽しむためにわざわざ着飾って自分の地元を歩くなんていう必要は、まったく無いのだ。 居住者だから、自分の住む町で今日も淡々と普段の暮らしを続けているだけである。
したがって、
その都会の中で、いかにもファッション雑誌から抜き出てきましたみたいな、スキの無いキメッキメの服装で「私は都会人よ」風情でシャナリシャナリと歩いている人に限って遠くから電車を乗り継いで憧れの週末シティライフに陶酔している人である可能性が極めて高いのである。
またそんな彼らを垣間見た遠方からコロコロを引きずってやって来た観光客が、「やっぱり都会って垢抜けてるー!」っと憧れて、それをマネしにかかる。
だが、
そこには、本当の地元の人間は不在なのである。
という滑稽なことが起こり得るのが、大都会の常である。
だから「~じゃん」を標準語と勘違いするような人がでてくるわけである。
モンクの音楽を好まない人の中には、
オスカー・ピーターソンの華麗な演奏と比較する向きがいるかもしれない。
モンクがピーターソンの音楽を全く評価していなかった逸話が
そもそも、NYマンハッタン子のモンクが
カナダのどっかからNYに出てきたピーターソンの音楽を華麗であると思うわけがないのだ。
いや、
逆説的に、「華麗」と思ったかもしれない:
ガチャガチャ、
ごちゃごちゃ、
steely。
モンクが子供の頃から聴き馴染んだNYの、マンハッタンの音楽は、
華麗なんぞとは正反対の、
いつもどこかでおもちゃ箱がひっくり返っているような、
騒々しく雑然として、それでいてバキバキにトンガっている音楽なのだ。
都会っ子のモンクにとって、
華麗とは、野暮のことなのだ。
華麗とは、田舎者が好む趣味なのだ。
セロニアス・モンクとほぼ同時代だったかな?に、
NYの音楽を象徴するもう一人の作曲家がいる。
ジョージ・ガーシュインだ。
モンクとガーシュインは、
ニューヨークの音楽を象徴するアメリカの大作曲家である。
この二人は、
アメリカの芸術文化の主役であり牽引役である2つの民族グループを、いみじくも象徴している。
次回(かな?)に続く。
続きではなくなった...:
tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
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