おんがくの彼岸(ひがん)

大人の独学ピアニストtokyotoadのブログ

ピアノ/西洋クラシック音楽には有って/無くて、三味線/日本の伝統音楽には無い/有るもの

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以前、こんな記事を書きました:

tokyotoad1.hatenablog.com

 

その後、三味線を習っている人と話をする機会があって、あることを直観しました。 それは:

 「楽器を演奏する人は、三味線である、というか、三味線であれ!」

 

ということです。 人間が楽器となるヴォーカルでも、もちろん同じです。

これは、その人から三味線の構造を説明してもらっていた時に、直観したことです。

 

そして、自分が三味線になったつもりでピアノを弾いてみると、今までよりも芯のある音を鳴らすことができて、しかも、速く弾けたり、音量や音色も調節しやすくなり、気持ちを音に乗せやすくなると実感しました。

また、Ilinca Vartic 先生YouTube動画のひとつで、ピアノの鍵盤を押すときの感触を形容する言葉の意味が、ようやくわかった気がします。

 

ここまでの内容を意味不明に感じて、「こいつはオカシイ」と思う人もいることでしょう。 でも、「ようやくお前はそれに気がついたな」と思う人もいることでしょう。

 

つまり、三味線に有るものを、私も持っていると思ったわけです。 それが、音の響きのカギなんだと思います。 

 

話は変わりますが、ヨガのチャクラというものが、いったい何なのかについても、なんとなく自分なりに想像できてきました。 チャクラが「活性化」されていないと、楽器も、歌も、スポーツも、ぶっちゃけ、生活における動きも、うまくできないはずだ、と思います。

だから、「活性化」されないままで、何時間も悲壮にハノンを練習したり、「できない」と言われた部分を「次のレッスンまでには!」と何度も何度も必死に部分練習する行為は、まったくもって悲しく、そして滑稽で、ぶっちゃけ無駄な行為だと思います(だって、「次のレッスン」っていう短い期間では、あまり意味がないと思うからです、もっとも「次のレッスン」が1年後だったら、主体的に試行錯誤しがら続けている人によってはブレイクスルーが訪れるかもしれませんが。 でも、脳を使わずに、ただただ悲壮に練習するというプロセスは、おそらく、ほとんどの人が通る道ではないかと思います)。

そのうえに、現代の生活において、チャクラを理想的なレベルに「活性化」することが、いかに難しいことか。 それがいつもちゃんとできている人は、おそらく「人間のクズ」と呼ばれるような人かもしれません。

(現代における一流のプロ演奏家たちの中には、「人間のクズ」になることなく、できている人がいると思います。なぜなら、昔と違って、今の世の中、「人間のクズ」では、一流のプロ演奏家にはなれないからです。会社員・美容師・演奏家など、どんな職業でも、プロとは、自分の労働やサービスの対価として世間様から投げてもらったお金で、ちゃんと自分の生計を立てられている人のことであり、そうなるためには、「人間のクズ」では、どうにもならないからです)。 

 

ところで、「活性化」って、どういうことなんでしょう? 言葉って、文字って、ほんとうに、あいまいなものですね。 

 

三味線の話にもどりますが、ギターと三味線を比較すると、西洋の伝統音楽と日本の伝統音楽の違いがわかる気がします。

 

ギターのチューニングで明確に規定されているものが、三味線のチューニングでは規定されていないんですね(もっとも、ギターでは、対立するふたつが同時に規定されるので、それはそれで、どちらかに規定されないから、明確ではない、とも言えるのでしょうが)。 これを、「だから、日本の伝統音楽は遅れた、劣ったものである」と考えるのか、それとも、「何かを特定してそれを規定することを卒業してしまった、ハイコンテクストな文化を象徴するものである」と考えるのか? ロックのパワーコードは、クラシック音楽のトライアドよりも劣ったものなのか? 「楽譜は、ロウコンテクストな、絶対的なものである」のか? ハイコンテクストな楽譜は、劣ったものなのか、いやむしろ、演奏者の心技体があからさまにわかってしまう媒体ではないのか。 そもそも、「絶対的な、ロウコンテクストな楽譜」は、真の意味で完璧に、作曲家の意図を記録できる媒体なのか。(← ジャズ以前の西洋音楽(クラシック音楽)の楽譜は、作曲家の意図を忠実に再現できるように書かれているだろう。 だって、ヨーロッパ人の作曲家の脳も、同じようにロウコンテクストな構造だろうから。 だからこそ、モンク大師のトランスクリプション譜になると、楽譜は、作曲家兼演奏家の意図を完璧に記録する媒体としては役に立たなくなってしまうのだ(採譜者さんの能力と努力は高く称賛されるべきだが)。 なぜなら、ジャズの生演奏は、クラシック音楽の記譜法の限界を超えるからだ。 言い換えれば、クラシック音楽の記譜法では、アフリカ由来の複雑な音感やリズム感を、完璧に譜面上に記録することが不可能だからだ。 日本の伝統音楽の音感やリズム感も、アフリカとは違った意味で、クラシック音楽の記譜法では、忠実に記録できない。 しかし、時代は進んだ。 前世期以降、作曲家兼演奏家の実演を、録音&録画して記録メディアに残すことができるようになった。 産業技術が、音楽に追いついたのだ。 プロのピアニストがモンク大師の演奏を完コピしてCDや音楽ファイルで売らないのは、このためだ。 もしも、ベートーベンやショパン本人によるピアノ演奏が、音声データとして今に残っていたら、私たちは、現代の演奏家による完コピ演奏のCDを有難がって買うだろうか? また、完コピ演奏のコンサートは、曲芸を見に行く以上に、何か意味があるだろうか? ←アダム・ニーリーさんが、クラシック音楽の「楽譜信仰」と、音楽の記録媒体の進化について、興味深い動画をアップしています。)

 

ちなみに、江戸弁で、ハイコンテクストは「粋(いき)」。ロウコンテクストは「野暮(やぼ)」です。 

ビジネスでは、契約書も請求書も何でも、数字も文字も細かく規定&明記しなければ成り立たない、ロウコンテクストの世界です。 だから、ビジネスは、本来、「野暮」な行為です。 だから、お金をケチったりすると、「あの人は野暮だなぁ」と思われてしまいます。 しかしながら、お金は、人が生きるために絶対的に必要です。 人は、お金を稼ぐために、野暮にならなければ生きていけません。 お金は、野暮に稼いで、粋に使うのが、理想です(大変に難しいことですが)。

 

世界中で最も売れているマイルズ・デイヴィスの、音楽史上におけるランドマーク的なアルバムは、西洋音楽に「粋(いき)」をもたらしたと考えられているのではないでしょうか。 どこかの英文批評で「水墨画のような音」と形容されていたと思います。 この「水墨画」とは、日本の水墨画のことです(20世紀後半の東洋を代表していたのは、日本でした)。 日本の水墨画だけに有るものが、いや逆に、他の東洋の国々の水墨画には有って、日本の水墨画には無いものと同じ要素が、あのアルバムの音楽の要素にも無かったのではあるまいか。 つまり、「無いということ」が、あのアルバムには有った。  みうらじゅん氏がアウトドア般若心経の修業を始めるきっかけになったのが、コインパーキングで見かけた「空有り」という看板だったそうです。 空(無)が、有る。 無いということが、有る。 色即是空、空即是色。 マイルズ・デイヴィスのアルバムによって、西洋音楽は、そのスペシフィックなロウコンテクストのドグマから解き放たれて、ヨーロッパ地域の民族音楽(西洋クラシック音楽)から、真にユニヴァーサルな音楽に進化を遂げたのではあるまいか。

 

  

ところで、北京原人生活さんのブログに、私もそう思っていたことが書いてありました。

「おなかを引っ込めて」とか、「まっすぐ座って」とか、「手首の力を抜いて」とか先生は言うけど、たぶん、できていない生徒は、ぜんぜんわかっていません。 

さらに恐ろしいのは、先生も、わかっていない&できていない可能性が大いにあることです。

私は、自分の脳と感覚を、第一に信じます。

 

 

以前に書いた関連記事:

tokyotoad1.hatenablog.com