ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

私がスゴイ!と驚嘆する編曲作品

 

以下は、20220129にアメブロに書いた記事:

 

世の中には、

往年の名曲を編曲したカバー作品が、

たくさんある。

 

なかでも、

私が個人的に「これはスゴイ!スゴ過ぎる...」

と驚嘆する編曲作品は:

 

 

矢野顕子  「青い山脈

矢野顕子の '坂本龍一時代' の名盤

「ごはんができたよ」に収録されているが、

このLPが発売された頃、

FM東京の日曜夜の番組でエアチェックした

アッコちゃん本人による「青い山脈」の

ロピアノ弾き語り演奏にビックリ仰天した私は、

受験勉強の間隙を縫って、

聞きよう聞き真似でコピーして弾いていた。

当時、もちろん発売と同時にお小遣いで買った

LP「ごはんができたよ」に収録されている「青い山脈」よりも、

FM東京の番組でソロピアノでライブ放送した演奏のほうが、

鬼気迫る疾走感と、

狂気すら感じさせるハジけまくり感に満ち溢れた、

昭和の名歌手、藤山一郎氏が朗々と歌唱する

20世紀日本の代表的歌謡曲青い山脈」が、

アッコちゃんによるスクラップ・アンド・ビルドで

全くの別物に生まれ変わった、

まさに、生ものの名演奏であった。

録音したカセットテープは、まだ捨てていないと思うが、

再生するカセットデッキはとうの昔に捨ててしまった えーん

 

 

② スガダイロー  「はとぽっぽ」

数年前、真夜中に繕(つくろ)い物をしていたときに、

30代の頃とおぼしきスガダイロー氏のソロピアノライブ動画を見つけて

つけっぱなしにしながら針仕事をしていたのだが、 

ある曲の途中で、ふと、

糸と針を持つ私の手が止まった。

 「この曲は、もしかして、『はとぽっぽ』では...?」

耳をそばだてて聴くと、確かに、「はとぽっぽ」のようである。

しかし、それは、原曲の子ども唱歌とは似ても似つかぬ、

恐怖と戦慄に満ちた「はとぽっぽ」であった! まるで、

往年の「ウルトラQ」の、とある回で

少年が拾った文鳥を原曲の「はとぽっぽ」に見立てれば、

スガダイロー氏による「はとぽっぽ」は、

その文鳥が変化(へんげ)巨大化した、

巨大怪鳥ラルゲユウスのごとき、

原曲とは似ても似つかぬ恐ろし過ぎる「はとぽっぽ」であった!

あまりにも驚いたので、私は直ちに

「はとぽっぽ」が収録されたスガ氏のCDをポチって

家に届いた直後にワクワクしながら聴いたが、

CD収録の「はとぽっぽ」は、ソロピアノライブ動画の演奏に比べると

きれいにまとまった構築感があった。 いや、

きれいにまとまって聞こえたのは、

私が、さいしょに、巨大怪鳥ラルゲユウスのごとき

即興ソロライブの爆演を聴いてしまったこともあるだろう。

スガ氏による編曲「はとぽっぽ」は、

とあるオカメインコが覚えて鳴き歌う「はとぽっぽ」の、

[その「不完全に記憶されて」原曲とはいささか異なってしまった ←ブログ筆者による追記]

メロディーがインスピレーションになった、と

氏が語る記事を、どこかで読んだ。

スガ氏の卓越した着眼点に、平伏するしかない。

天才は、天然にかなわない。 ←とは、

  山田五郎氏が氏の美術動画で語った金言であるが、

人間が大脳の前頭葉で考えた作為は、

オカメインコの天然には、かなわない。

上述で、オカメインコちゃんは原曲を「不完全に記憶」と私は追記したが、

じつは、「不完全に記憶」ととらえる低位の視点を棄て去って、

はるか上空は天上界の須弥山(しゅみせん)からそれを眺めれば、

それは、オカメインコちゃん自身の解釈による、

純真無垢の創作アレンジの自己表現なのである。

その尊さよ。 そして、

原罪を負ってエデンの園から追放された

人間の罪深さよ!

人間の原罪とは、

大脳の前頭葉で無駄にこねくり回す

無意味でツマラナイ思考だ。

人間は、

キリスト教で言うところの「原罪」から、

仏教で言うところの、ロクでもない「自我」から、

魂を自由に解き放った時に、

オカメインコちゃんと同じ崇高な次元において、

つまり、「おんがくの彼岸」において、

芸術表現が可能になるのだ。

そんな、

創造芸術の本質を鋭く見抜くスガ氏の慧眼と、

氏の鬼気迫る編曲&演奏能力に、脱帽するばかりである。

 

 

セロニアス・モンク 「Body and Soul」

アルバム「Monk's Dream」に収録された

このアレンジを初めて聴いたとき、

アゴが落っこちたよ...。(←落っこちてないけど、

ビックリ仰天して思わず口をアングリ開けてしまったよ。)

メロゥでム~ディ~な原曲を、

一体全体どうしてくれやがったんだい!?

と嬉しく叫びたくなるほど、

おもちゃ箱をひっくり返したような、

とんちんかん感が満載の、

キテレツでスットンキョウな代物に変容させてしまった、

NYマンハッタン育ちのモンク大師の

都会過ぎる洒脱な茶目っ気と、

ラクタのように聞こえる音の背後にドッカリ鎮座する

音楽理論の大神殿と、

最高峰の音楽のデリバリーを可能にする卓越した演奏技術!

 ( ↑ に全然聞こえないところが、モンク大師の卓越した演奏技術だ!)

モンク大師による「Body and Soul」の演奏録音は何曲か残っているが、

「Monk's Dream」に収録されたバージョンが最も強烈に珍妙、かつ、

音楽的洗練性の最高峰作品であろう。

 

 

①②③の三人は、

元の原曲をトンデモなく珍奇な作品に編曲して

原曲に新たな付加価値を大いに追加して

バリューアップする能力が、

人並み外れている。

編曲のターゲットとなる原曲を見つけ出す選別眼と、

例外的な編曲能力と、それによって

大いに追加したバリューを

お客さんに届ける演奏能力が

常軌を遠く外れている方々である。

 

ここでは、各1曲だけを取り上げたが、 

ぶっちゃけ、

このお三方による、他のどのカバー曲も

素晴らしい!の一言に尽きる。

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

私がスゴイ!と驚嘆する編曲作品 | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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