音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

ショパンの曲の耳コピというか「思い出しコピー」とリハモ(その①)

 

田村まさか氏のライブ動画を見ていたら、モーツァルトをはじめクラシックの曲の良さが感じられるようになってきた。 田村まさか氏の演奏にハートがあるから、クラシック音楽にキーンじゃない私にも伝わるんだね。 ミスタッチがないようにテンパって機械のように弾く演奏や、「お前たち未開の土人たちに高尚な音楽を聞かせてやるから地べたに体育座りして有難く聴け!」みたいな、見当違いまくった木で鼻をくくったような演奏には、ハートというか、ぶっちゃけ誠意が無いから、どんなに完璧に弾いても、聴く人にぜんぜん伝わらないんだ( ←「土人」という言葉を敢えて使ったよ。お節介で高飛車な彼らは、こちら側のことを内心そう思っているんだ)。  

 

演奏にハートが有る田村氏がよく弾くショパンの曲を何度か聞いていたら耳コピしたくなってきたよ。 田村さんのマジックだね。 こどもの頃のピアノのお稽古でこの曲を習う前に逃げちゃったのが良かったのかもしれないね。変なトラウマを負わなかったんだ。 メジャーな曲だから、聞きよう聞き真似でなんとなくメロとコード進行を覚えていたので、試しに弾いてみたら、キーは原曲と違ったけどいい感じで弾けた。 加齢のせいらしく絶対音感があやふやになったから、原曲と違うキーで弾いても私的にはOK。 あとで原曲のキーがわかればそのキーで弾けるからね。 基本的なコード進行だから簡単に耳コピアレンジ演奏できた。 絶対音感が無くなってきて個人的に良かったことは、聞こえた音楽をどのキーでも弾き始められて最後までそのまま弾けちゃうことだ。この歳になって、子どもの頃に無かった相対音感を獲得したってことだ。 

ちなみに、中年以降に絶対音感がズレてしまったことを嘆いたり、「じぶんは子どもの頃にピアノを習わなかったから、絶対音感が無いんだ...」なんて、自分に不必要にムチ打つ必要は無い、というか、全く持って無駄過ぎる行為だ。 私の場合は、子どもの頃に持っていた半音ベースの粗い絶対音感が、50歳前後でピアノを再開した時に半音~全音ズレてしまっていて、「絶対音感ドリル」みたいなことを必死にやったけど、ぜんぜんもとに戻らなかった。 今は、意識してしばらく聴いていれば、その曲のキーを当てることはできるけど、疲れるからあまりやらないし、なんといっても、曲を聴いてメロディーとハーモニー進行を覚えれば、どんなキーでも弾けるから、相対音感を獲得した今の方がずっと便利だ。 私が視た、全世界で最も有益と私も他の人たちも思っているに違いない人の動画で、ストラヴィンスキー相対音感だけ持っていたということを、私は知った。 いや実は、「絶対音感の鎖(くさり)」から自由だったからこそ、ストラヴィンスキーは、あのような「難解な」音楽をいとも簡単に作れたのかもしれない。 ジャズやフュージョンといった、クラシック音楽オンリーで育ってきた人が苦手意識を感じるジャンルも、実のところは、相対音感だけのミュージシャンにはけっこう簡単な音楽なのかもしれない、と私は感じはじめている(もちろん、絶対音感相対音感の両方を持っているミュージシャンもたくさんいると思う)。 

子どもの頃からクラシックピアノを習うと、粗い絶対音感は仕込まれるが、その代償として、相対音感の能力を確実に潰される、というのが、私の個人的な経験だ。 というのは、クラシックピアノ教育が相対音感を潰すように出来ているからだ。 にもかかわらず、「この人は本物だ!」と私が思うケンバニストさんたちの中で、クラシック音楽で音大を卒業したピアニストさんたちは、音大卒業後に、仕事で食うために相対音感を必死で身に着けている。 そう、音大を卒業した後に、だ。 「じゃあ、絶対音感絶対音感!と唱えるピアノ教師がいるのはどうして?」という疑問に対する答えは簡単だ。 彼らのほぼ全員が、クラシックピアノ出身で、粗い絶対音感は持っているけど、その代償として、相対音感が潰されてしまっているから、相対音感について教えることができないからだ。 それを物語るかのように、彼らは「絶対音感!」については声高に言うが、相対音感の話になると口をつぐんで黙りこくってしまう。 だからこそ、かれらはピアノの先生をしているのだろう。 相対音感が無いと、音楽産業の中でプロ演奏家として仕事をすることが極めて難しいからだ。 音楽産業において、どうして相対音感が必要かというと、演奏家としてお金を稼げる仕事のほとんどは、大御所歌手や今をときめく人気歌手の伴奏や、著名アーティストやバンドのサポートミュージシャンとしての仕事だからだ。 つまり、雇い主の歌手の声域やメロディ楽器の音域によって、臨機応変にキーを変更して演奏する必要が有るからだ。 同じ歌手の同じ曲でも、その歌手が加齢とともに声域が低くなったら、それに応じてキーを変える必要が出てくる。 そのニーズに迅速に対応できなければ仕事にならない。 「キーを半音下げるんですか?わかりました、一週間練習してできるようにしてきます」な悠久の大河のような時間間隔で、演奏稼業でメシを食えるわけがない。 「それなら自主興行ライブをして生きていくからいいよ」なんていって採算が取れるビジネスを継続していけるためには、ユーミン永ちゃんのような規模が必要だろう。 会場レンタル料から伴奏者やスタッフへの日当や広報活動など全てのコストを負担して自分が主役となって開催する自主興行のコンサートは、どんなプロでも、かなりの規模で興行を打って相当数のチケットが売れなければ、採算をとることは並大抵ではないだろう。 そもそも、自分にどれだけの忠実なファンがついているのか? チケットを買い続けてくれるファン基盤を維持するための有形無形のコストは大きい。 だから「絶対音感絶対音感!」とことさらに唱える人は、アマチュアの世界の住人と言えるのだ。 

ところで、ピアノの絶対音感を「粗い絶対音感」と書いたのは、半音レベルの絶対音感のことだ。 ピアノで表現できる最も細かい音程が半音だからだ。  真の絶対音感が有る人とは、世界各地の音楽でデフォルトで使われるクォータートーン(1/4音。四半音)ぐらいは判別できる人だろう。 絶対音感を絶対に獲得したい!と思う向きは、三味線や琴やヴァイオリンを習うほうが良いだろう。 ケンバンもフレットも無い三味線や琴やヴァイオリンの奏者のほうが、はるかに鋭い絶対音感を持っていないと、弾く音がすべてオンチになってしまうからだ。 何年か前に、「歌の伴奏をしていると、『上の音の声が出ないからキーをちょっと下げてほしい』と気軽に言ってくる歌い手がいるが、その場でキーを半音下げて弾くことがピアニストにとってどんなに大変なことなのか、歌う人はわからないのよね」みたいに書いていた、かつてのラウンジピアニストで今はピアノ教師になっている人のサイトを見かけたことがあるが、この言葉が、その人のキャリアの顛末のすべてを物語っている。 その人が演奏業界で生き残れなかった理由は、その「クライアントのニーズに合わせて瞬時にキーを変更して弾く」という、職業ピアニストにとって必須の移調スキルが、無かったからだよ(もちろん、女性ピアニストの場合は、「トウ」が立ってくると仕事が無くなってくるということもあるだろうが)。 

 

私が耳コピしたショパンの曲にもどって、

曲中の、ドミナント7的に使われるディミニッシュのコードについては、どれか忘れちゃったのはコンディミのどれかを使ってリハモして演奏した。 ただ一か所、モト曲のコピー進行が記憶の中であやふやな(耳から入った音情報を脳が自動的に認識できなかった)箇所が、BパートからAパートに戻る直前のドミナント7コードを、意外性の有るコード進行を使ってわざと引っ張って盛り上げた、いわゆるこの曲のキメ的な連続コードのヴォイシングだが、ここもリハモした。 ショパンのモト曲では「V7⇒半音ズラしの意外なキーでのV-I(=II-V) ⇒ II-V進行⇒最後のV7⇒そしてAパートの初めのホームキーの Iコード」に戻ってくるんだが、しょっぱなに意外なキーに持って行って聴く人の意表をついてから最終的にV7からホームキーの Iコードに戻ってくればいいんだから、とりあえず自分で文法的に整合性が有るコード進行を思いついてから、「モト曲はどうなってるのかな~?」と、家にある楽譜で確認してみたら、とても興味深かったよ! モト曲では、ショパンは、ベース音のスムーズな動きを狙ってインヴァージョンのコードを3つ使ったあとに、ツーファイブをつかってIコードに戻らせている、というか一連の進行を V-IとII-Vという5度圏の組み合わせで作っている。 ショパンが使ったのと全く同じコード進行を使って、インナーヴォイスのほうをすべらせるようにすると、ベース音は各コードのルートを押えることができて、コード進行がわかりやすくなる。 私が、結末から逆算して思いついたコード進行は、基本形コードを最初にトライトーン上に飛ばして、ショパンが狙ったのと同じような意外性のある展開にしてから、ベースラインをホールトーン刻みで降りていって終盤の「V7のV7」にトライトーンサブスティテューションを使ってV7にたどり着いて⇒ Iコードに戻ってくるという進行だ。 ショパンがしょっぱなに転回形コードのベース音へと半音下がってシレッと意表を突いたところを、私はしょっぱなに基本形コードをトライトーン分一気に飛ばして直球で意表を突いた形だ。 結果的には、どっちのパターンも、完全4度インターバルに半音プラスしてトライトーンの動きを作って、聴く人にちょっとしたサプライズを提供しようとしているんだね(ショパンは Iコードに戻る直前の II-V の II(=V7のV7)に対してトライトーン飛んだけど、私は、そのII-VのV7に対してトライトーン飛んだ)。 ショパンは V-I や II-V を組み合わせていて、ガッチリした構築性があるけれど、基本的なトライアドとドミナント7のコードで押してくるから、その分、コード進行が角張ってガランゴロンと転がる感じがあって、そこが昔の時代というか、クラシック音楽っぽいかな。蒸気機関車のようなスムーズ(じゃない)さがある。 ところで、EWFが歌うAfter the Love Has Goneのサビもツーファイブの連続だけどマイナーセブンやSUSコードが使われていて、より角が取れたスムーズで現代的な進行の感じがする。西洋音楽が、新幹線レベルのスムーズなヴォイシングに進化してきたことがわかる。 私が作った進行は、構築性は薄いけど、各コードのルート音が階段のように降りて行って、トライトーンサブも入れているから、しょっぱなにトライトーン分飛んでからはガランゴロンする感じは無い。 ただ、トライトーンサブをいれたことでその部分のメロディを半音上げた、っていうか、モト曲の対応するコードのメロも半音上げて記憶していた。 ホームキーの Iコードに戻る前の前のV7(つまりV7のV7)を、V7(b13)だと思っていたよ! 「ショパン今風だな~」と思っていたら、私の脳内が今風なだけだった! モト曲のメロのままだったら、私のリハモはトライトーンサブのところがディソナントすぎて厳しいかな?私は平気だけどね。  たった半音の違いなんだけど、その半音の違いに100年ぐらいの時の流れが凝縮されている。  私だったら、モト曲のそこんところのメロを「5 -  5 -  #5(b13) -  6 -  #6(b7) - 7」にするね。だけど、私が思いついたコード進行にはV7(#11)やV7(13)やV(9)が入っているから、ショパンの時代の人にはノイズに聞こえてしまっただろう。 ショパンによるモト曲のメロディラインは「5 - #5 - #5 - 6 - 6 - 7」で、コード進行はVとV7だけが使われていて、当時の人の耳に受け入れられるハーモニーになっているが、現代人の耳にはヒネリに欠ける。 期せずしてリハモを楽しめた。

ちなみに、リハモには、「どれが正しい」とか「どっちのほうが優れている」とかは、無い。 もちろん「作者の意図にどれだけ沿っているか」という基準はあるだろうが、作者の意図とかけ離れたリハモでも、別の世界観を提示する芸術表現が生まれることもある。 クラシック音楽については、そのほとんどがパブリックドメイン作品になっていて、作曲者とその関係者の著作権も人格権も失効しているので、どのようにアレンジやリハモをして二次使用しても、その人の自由だ。

もっとも、音楽や絵画をはじめとする芸術表現において、「これが正しいから、それは間違っている」と考えることは、芸術の死を意味する。 前回の記事に書いたように、ハービー・ハンコックが「間違えて弾いてしまった!」と青ざめたコードが、バンドリーダーのマイルズ・デイビスの事実上のお墨付きを得て、ジャズ小僧たちにマネされるようになって、やがて正統派のコードの地位を得ていく、というような、「ひょうたんから駒(こま)」的なハプニングの連続が、音楽の進化だからだ。

音楽の進化は、一人の人間の脳内でも、その人のレベルにおいて、進む。 今日の記事に書いたようなリハモを思いつけるようになったこと自体が、この5年間の私の進化だ。 これからもこの調子で続けていけば、今から5年後には、もっと洗練されたリハモを思いつくようになっているだろう。 

 

tokyotoad

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた(←諦めて命拾いした!と、今しみじみ振り返って背筋がゾッとしている)、「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。