ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

いわゆるピアノの「教則本」と呼ばれる書籍について

 

私は「教則本」という言葉が嫌いだ。 一部の良書を除いて、市販されている「教則本」のほとんどが、エンタメコンテンツだからだ。 エンタメコンテンツじゃない場合は、著者のビジネスの商材だからだ。 売り物だから当たり前だよね。  

 

それに、自動車の運転免許でもない音楽に、「教則」が必要だろうか? という根本的なことを思ってしまう。 人を殺傷する能力を有している自動車を運転するためには、教則本で厳しく勉強し真剣に訓練しなければ、重大な事故につながる可能性が大いにある。 これに対して、音を演奏して間違っても、誰も怪我しないし、そもそも音しむものなんだから、「教則本」で調教するようなやり方だと、音を奏でられなくなるのではないか?

 

クラシックピアノの「教則本」は、基本的には必要ないのではなかろうか。 クラシックピアノ史に輝く大作曲家たちの作品に、教則はすべて入っているからだ。 それなのに、現代のどこかの誰かが「こどものための」とか「初級者のための」とか「大人のための」とかいう枕詞をくっつけて、すでにパブリックドメインになってしまっている、経済価値が失効したタダのコンテンツを「焼き直して」作ったものが、必要なのか? いや、断じて必要なのだ!著作者の収入になるのだから。 

その「焼き直し」によって本についた値段が、経済価値になるが、その価値は、生徒が著者に投げるお賽銭だ。 クラシック音楽に本当に、本当に必要な肝(キモ)コンテンツは、実はほんの一握りの内容だけだ。 音楽理論書の最初の数ページと、バッハのコラール集を1冊買うぐらいで、5千円足らずで余裕で済む。 あとは、数百ページぐらいの詳細なクラシック音楽の理論書1冊と、歴代の作曲家の作品の楽譜で肉付けしていけば、事足りる。 なのにどうして各種さまざまな「教則本」が売れるのか? それは、「教則本を買うこと」自体が「お買い物エンターテインメント」だからだ。 「お買い物エンターテインメント」というキャッチコピーによって、ショップジャパンは、本質をとらえている。スゴイ会社だ。

 

「そんな考え方は、子どもの生徒には通用しません!」

もっともだ。 だが、私は、大人だ。 オママゴトの道具も、ロンパールームのお姉さんも、必要ない。 

  

一方、

ジャズにおける「教則本」と呼ばれるものの良書は、実際のところ「教則本」ではない。 それらの本当の呼び名は、「何十年もかかってジャズを自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)にした人が、その人の脳内に蓄積統合されたジャズの知識と実践ノウハウを整理して体系的にまとめたものだ。 誰かに向けて語り教える体(てい)の「教則本」として売られているが、実はそうではないのだ。 だから、いわゆるジャズの「教則本」で最も恩恵を受けているのは、その「教則本」を書いた著者本人なのだ。 本が売れれば金銭収入になるが、それ以前の、もっと根源的な段階で「恩恵を受ける」、いやすでに「恩恵を受けてしまっている」のだ。 それは、その著者自身が、自分の脳内のジャズの知識と実践ノウハウを整理して体系的にまとめるという、その行程そのものによって、著者本人は既に大きな恩恵をエンジョイしたのだ。 その人の脳内の知見を整理して文章にしてそれを体系的に編纂できるということは、その人は、その何倍もの知見とノウハウを獲得済みであり、それを体系的に編纂するプロセスによって、長年積み上げた膨大な知見の結晶を、その人自身の脳内で確固たる財産にできるからだ。 ジャズの「教則本」と呼ばれる書籍は、それを書いた著者のジャズ人生のアチーブメント(達成)なのである。

 

と、このように思ったのは、自ら書いたジャズの理論書や「教則本」をネットで販売するプロや、自ら体系化したジャズ理論をネットで公開するアマチュアさんたちのコンテンツを見るうちに、彼らが口をそろえて言うことがあるのに気がついたからだ。 得てして彼らはこう語る:

「自分がジャズを学んだ時には、すべてを体系的に説明してくれる良い気理論書が無かった。 そういう理想的な理論書に巡り合っていたならば、自分はもっと効率的にジャズをマスターできたのに、と思う。 だから、自分は、いろいろと回り道をしながらジャズをマスターしたが、これからジャズを学ぶ人にはもっと効率的にジャズを会得してもらいたい、だから、自分はこの本を書いたのだ。」

彼らが一様に語るこの内容に、真理のすべてが有る。

つまり、

自分にとって理想的な理論書なんで、この世に存在しないんだよ。

彼らがジャズをマスターする過程で出会い読んだ先人たちの理論書は、その先人たちの個人的な知識体系を文書化したものに過ぎないんだ。 万人に等しく効果的な理論書なんて、無いんだ。

だから、彼らは、複数の先人たちの理論書を片っ端から読み、そこから、知識やノウハウを吸い取って、それをひとつひとつ覚えて演奏しながら、なんども回り道をしながら、何十年もかけてジャズの言語体系を獲得していく。 そして彼らが苦労して獲得した知見を自ら体系化した、彼らが書いた理論書は、彼ら各自にとって最も効率的な理論書なのであって、私にとって効率的かどうかは別問題だ。

 

そういうわけで、ジャズをマスターしようとする人は、いろいろな先人たちが書いた理論書を何冊も買い漁ることになるが、それは、しごく自然なプロセスといえる。 万人に当てはまる理想的な習得方法なんて、存在しないんだ。 だから、誰もが、それぞれ、あっちにぶつかり、こっちへ回り道しながら、自分の足で、一歩一歩、たどたどしく、音楽の富士山を登っていく。 それが王道なんだ。 逆に、行き止まりも遠回りもさせないように企画化された「標準的なコンテンツ」の中に安住してしまうことは、アマチュアレベルでは全く問題ないが、プロの演奏家になれることは無いだろう。 プロの世界とは、少なくとも「標準や「規格」を破った所に在る世界だからだ。 日本の伝統芸能の「守」「破」「離」である。 「守」の段階は、先人たちが築いてきた「標準規格」を習得中の段階の、いわゆるアマチュアのレベル。 「標準規格」どおりに再現する行為は、素人芸であり、世間からお金をもらえないレベルだ。 その枠を破って、自らの個性という付加価値を加えて自己表現を行うレベルが「破」であり、その芸道の技を体得した上に、自分の個性を打ち出した世界観を表現してお客様に喜んでいただけるレベルだ。 そして「離」は、自分の個性を付加した芸が次世代に継承されるべき至芸に到達した、人間国宝の候補になる次元だ。

 

「いえそんなことはありません! 生徒たちに回り道をさせないように偉い先生方が企画計画したこの標準規格に沿って進むことが、生徒たちにとって最も効率的な習得方法です!」という主張もあろう。 余計なお世話だ。 人間が最も多くを学べるのは、自分自身がやらかした失敗からだ。 失敗とは、非効率なプロセスの結果のことだ。 だから、あまりにも効率の良いプロセスの世界に生きてばかりいると、失敗を経験させてもらえないから、失敗を恐れるようになり、逆に伸びなくなってしまうのではないか? それから、「標準規格」を規定してしまうと、その規格の外に有るコンテンツはすべて「標準規格外のもの」「標準規格をマスターしてからでないと触れてはならない難解な上級コンテンツなのである!」という意味合いが付いてしまって、習う側を無駄に委縮させ、教える方の何かの既得権が守られる、ということになりはしないだろうか? 「これは難しいから、子どもには/趣味道楽の大人には、教える必要はなかろう」と、誰が決めるのか? にもかかわらず、その世界に住んでいない全くの門外漢がいとも簡単にできたりする場合があるのは、いったいどうしてなのか?

 

だから、私は、自分の頭で考えながら、自分の足で歩いて行く。 幸いにも、今まで買い集めた書籍のほかに、今は、ネット上に文章や画像や動画のコンテンツが無限にある。 もちろん、それらの内容は玉石混交だが、その中から「玉(ぎょく)」を選ぶ目を養うのも、生きる上で大切なことだ。 一人の「先生なる存在」をむやみに絶対視すると、他の99人の「先生なる存在」や、アマチュアのベテラン先達さんたちや、先生方が教えない「標準規格外の領域」によく出現する本物の名人たちとの出会いの機会を、自ら潰すことになる。 それは、自分を粗末にすることだ。

 

今年は、「これができるようになりたいな~」と思っていたことが、かなりできるようになってきた。 脳にインプットして定着した情報パーツが統合できてきたということだ。 もちろん、人間である以上、自分の理想の音楽観をノーミスで100パーセント完璧に表現できるようになることは、この世を卒業しない間は、どんなプロでも無理だ。 だから、自分の頭で考えて、試行錯誤しながら、楽しく、死ぬまで続けていく。 今たどり着いた到着点からさらに一歩すすんで、来年の今ごろまでには、更に脳内の情報を統合して立体的な音楽を即興演奏できるようになっていたらいいなと思う。 そのために、楽しみながらずっとずっと、死ぬまで、いや死んだ後も続けていく。

 

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