以下は、20220301にアメブロに書いた記事:
私は中学生の頃から一貫して、
ギターに対するコンプレックスがある。
コンプレックスの原因は:
① カポへの恐怖
② Fmaj
③ プロのギタリストによる音楽理論の高度さ
である。
①は、子どもの頃からクラシックピアノしかやっていないと、
「カポが怖い!」になってしまうと、自分の経験上思う。
②は、指の長さや手の大きさや握力に関係するだろう。
③は、動画を見られる昨今、実感している。
ピアノ再開後の私の音楽理論は、
プロのジャズギタリスト&受賞歴のある音楽プロデューサーで
チャンネル登録数300万超の音楽教育系ユーチューバーさんが
かつて音大で生徒に教えるためにまとめた理論書(の大半がギター向け)に基づいている。
というのは、
その理論書の音楽理論の章がとても簡潔明瞭でわかりやすく、しかも、
ピアニストやピアノ教師によるコンテンツよりも
内容が遥かに包括的と思ったからである。
どうして、ギタリストによるコンテンツが良いと、私が思うか?
それは、
ギタリストによるコンテンツには多角的で重層的な視点が存在すると、私が感じるからである。
そもそも、
プロで見世を張っているギタリストは、
デフォルトでケンバン楽器ぐらいは弾けるものである。
ケンバン楽器は、低音から高音まで音の配列が単純に一直線なので、
2歳児にもピアノを習わせられるくらい、覚えるのが超簡単だ。
一方、ケンバン楽器以外の、ギターを含めて他のあらゆる楽器は、
ドレミファソラシドを覚えて鳴らすだけで一苦労である。
そして、ギタリストのなかには、ケンバン楽器はもとより
ベースを弾く人も多いだろう。
つまり、ピアニストに比べて
ギタリストはマルチ楽器奏者が多いという印象を、私は持っているのである。
マルチに楽器を弾けるということは、
様々な楽器を通して音楽に触れて音楽を理解しているということなので、
音楽全体へのアプローチが健全であるという印象を、私は持っている。
これに対して、ピアニストはどうか?
クラシックピアノの先生方、ご自分でギターを弾けますか?しかもカポ有りで。
おそらく、巷(ちまた)のクラシックピアノの先生のほとんどは、
ギターに触れたこともないだろうし、ましてや、
カポ有りで演奏できる人はほとんどいないだろう。
(↑これを、
ピアノの先生方が大イバリで豪語する「絶対音感」というものの...
呪いと、私は言う。)
要するに、
クラシックピアノ教師の音楽に関する能力は、
「クラシックピアノ曲の再現演奏」に極端に偏向し過ぎていて、
音楽全体に対する視野がとてもイビツであると、私は子供の頃から感じてきたのだ。
音楽への総合的な視野が極端にイビツなこともあって、
全うなプロの業界で全うなプロ相手の演奏の請負い仕事をして全うに食っている音大ピアノ科卒のピアニストが壊滅的に少ないのだろう。
プロ相手の演奏の請負い仕事は、音楽の総合力、つまり
音楽の真の実力が問われる仕事だから、
楽譜どおりに完璧に再現演奏することだけはできます!
以上終了!(大得意顔!)」じゃぁ、
現場での「使えない感」が絶望的に有り過ぎるからだろう。
だから、
プロの音楽業界で生き残っている、数少ない、
音大クラシックピアノ演奏科出身のピアニストさんたちは、一様に、
単に杓子定規に演奏するだけではなく、
編曲や、それなりに作曲もこなし、
「扇の要(かなめ)」的な音楽監督の役割もこなせる人ばかりではないか。
それ以外の音大ピアノ演奏科出身の皆さんは、
いったい全体どこへ消え失せてしまうのだろうか?
話を戻して、
これに対して、
一流の、というか、一流じゃなくても、
プロのギタリストによる動画は、
「ピアノなどのケンバン楽器ではこうしますよね、
これに対して、ギターではこうします」
というふうに、
他の楽器の例も挙げながら話をするので、
内容が重層的で、奥行きが感じられるのだ。
しかも、
実際に、自分でケンバン楽器を弾きながら、
人によっては
クラシックピアノの先生方がフリーズするような
複雑な音をケンバンでひょいひょい弾きながら、
ギターとケンバンをとっかえひっかえしながら語り続けるので、
語る内容にものすごく真実味が有るというか
本物感が宿るのである。
弾けもしない、というかそもそも弾こうとすらしない楽器に申し訳程度に言及して
「どう?私は他の(ピアノより劣った)楽器についても認識して(やって)いるピアノの先生ですよ!」 と宣伝するような、まるで
パンツをはかずにスカートの中を丸出しにして平気でいるような
無知蒙昧丸出しのピアノ教師が発信する中身がまるで無い薄っぺらな内容とは、
正反対の、
奥行きの深さを、ギタリストによるコンテンツに感じるのだ。
まあ何でもそうだが、巷(ちまた)には、
話す言葉だけは立派なのに、実際には
自分が偉そうに言っている内容のことがほとんど実行できない
掛け声だけのインチキ教師が多いので、
要注意である。 だが、
本人が大上段から偉そうに言っていることを、
実際に本人にやらせてみれば、
一発で正体を暴ける。
とここまで書いてきて、
まったく本題に入れていないのだが、
次回に続くのか?
tokyotoad=おんがくを楽しむ風流への道を歩くピアニスト
もとの記事@アメブロ:
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。