おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

ピアノの世界の迷信

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こんな文章を見つけました:

兼常清佐 音楽界の迷信青空文庫

内容を以下に抜粋引用します:
 
=== 兼常清佐(1885-1957)「音楽界の迷信」(パブリックドメイン著作物)より 内容を抜粋 ===
(アンダーライン(下線)と[ ]内の読み仮名などはtokyotoadによる)
 
音楽の世界は暗黒世界である。いろいろな迷信が縦横にのさばり歩いている
 
ピアノの先生はほとんど例外なしに言う。――お前はタッチを勉強しなくてはいけない。ピアノの鍵盤の打ち方こそピアノの技術の真生命のあるところである。お前は手の形、指の形などを十分によく注意して、よく先生の言うとおりに直して、いいタッチの出来るように勉強しなくてはならない。先生に習わないで自分一人でやったのでは、指や手の形がわるくて、ピアノの音が美しくない。――

これが迷信である。常識で考えて見ても、そんな出鱈目[でたらめ]な事があり得ようはずがない。パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。

ピアノがきまれば、その音はきまる。どんな粗製のぼろピアノからでも、名人に叩かれたら美しい音が出るというのでは、ピアノの製造に骨を折る甲斐はない。もしそんなことが実在するならば、ピアノ会社は全く浮ぶ瀬がなくなる[=立場がない]。
 
諸君の中にはタッチの稽古をした人もあろう。あんな先生の言う事は真面目になって本気で聞いていられるものでない。それは大抵音と関係しない事である。音の出る前の指や手の形の事である。たとえば指を鍵盤に直角に曲げて叩けという類である。指紋を取るように指を平に延べたらいけないという類である。
 
各々勝手に弾きやすいように弾けばそれでいい。その外いろいろなタッチの教[おしえ]は、結局手踊[ておどり]の一種である。甚[はなはだ]しいのになると、音が出た後の手の力の抜き方や、手くびの動かし方がタッチと言われている。そんな事を本気になって聞いている方も悪い。もう音の出てしまった後の鍵盤で、どんな手踊[ておどり]をしてみたところで、その音と何の関係もあるわけがない。ピアノ演奏家の生命といわれているタッチの技巧は、まず大抵こんなようなものである。これが迷信でなくて何であろう。

ピアノも一つの機械である。演奏家はその機械の運転手である。それにピアノ演奏家はピアノの構造にまるで無関心である。機械運転の手つき一つで音が変るなどと平気で言っても世間に堂々と通用する。音楽の世界が迷信の世界である証拠である。

また私共聴衆は何故に、名人のタッチなどいう曖昧至極[あいまいしごく]なものに感心したような顔をしなくてはならぬのであろうか。
 
音楽にあまり経験のない人は、どうしても演奏家を目で見て楽しもうとする。何かの理由で偶然その演奏家が世間的に有名な人だとしたら、それに英雄崇拝の感じが混ってくる。目がある以上は目で演奏家の姿を見てそれを楽しんでも悪くはあるまい。ただ演奏家の手つきが、ぐにゃぐにゃとして、さも柔かそうに動くから、そのピアノからも柔かそうな音が出るだろうと思うのは、それがそもそも迷信のはじまりである
  
諸君は何故に演奏家などいう怪しげな中間の存在物にそんなに心が惹かれるのか。音楽が成立するためには、演奏家は明か[あきらか]に第二義的な存在ではないか。
 
ショパンは美しい曲を作った。そしてプレエルのピアノでそれを弾いた。同じように今ここにヤマハやカワイのいい音のするピアノがある。ショパンの全集がある。そしてその美しさに胸を躍らす私共聴衆がある。それで音楽は完成していないか。
 
そして曲が同じなら、誰が弾いたところで、結局同じ事である。もし個人特有なタッチの技巧というものがないならば、あとは僅[わずか]に曲の速度や、強弱の変化や、音の均合などが個人的な特徴になって来るだけである。
 
そんな僅[わずか]な事はどうでもいい事ではないか。同じ曲を少し速く弾こうが、遅く弾こうが、そんな事が私共に一体何の芸術的な意味を持つか。ショパンやリストの世にも美しい作曲は、僅[わずか]ばかり速く弾かれようが、強く弾かれようが、そんな取るにも足らぬ小さい事ぐらいで、毫も[=少しも]その価値は変らない。特にその速さも、強さも、均合も、みな先生の真似事だとなったら、私にはますますそんな馬鹿々々しい事に係[かかわ]り合おうという気は起らなくなる。私はいい音のするピアノがあればいい。ショパンやリストの全集があればいい。弾くのはイグチ一人で十分である。イグチが手を病んだなら、――機械ピアノで誠にこの上もなく十分である。
  
乗り心地のいい円タク[=タクシー]は、音のいいピアノである。美しい自然の景色は、正に芸術家の美しい創作に比べられる。パデレウスキーは運転手である。私共は彼に五〇銭玉を一つ払って、おとなしく帰ってもらえばそれで十分である。この上にパデレウスキーは一体何を私共に要求する事が出来るか。

私は時々ウエノ[上野]の森を散歩する事がある。そこで音楽学校の学生が美術学校の学生と仲よく話をしながら帰ってくるのに出会う。それを見る度にいつも私は異様な感じがする。一人は自分の独創的な芸術を画布の上に描き出そうという事を理想としている美術学校の学生で、まさかその一生をラファエルやセザンヌの模写をして過そうと思うような人はあるまい。またその模写にしても、先生が青といえば青、赤といえば赤、何から何まで先生の言う通りに追随する事が一番大きな事業だと思うような人はおそらく一人もあるまい。しかし音楽学校の学生の方は、その美術学校の学生の決してやるまいと思う事だけをやっている。そして仕事は模写と追随だけである。曲はショパンやリストの作ったものである。ピアノはピアノ会社の作ったものである。その弾き方は何から何まで先生の言い付け通りである。もし個人的なものが知らず識らずタッチの上に表われるというかも知れないが、不幸にしてそのタッチというものは世の中には存在しない。やはり今のピアノの学生の仕事を取ってみれば、ただ模写と追随という事より外に何物も存在しない。
=== 抜粋引用 以上===
 
天才岡本太郎が、上野のお山にある芸術学校の美術科を「独創性がない」と失望して入学早々に自主退学したことを、思い出しました。 岡本太郎は、若くして、当時の日本が必死にマネしていた西洋美術の本場であるパリに住めた人ですから、ある意味特別な立ち位置にいたから、揶揄できたのでしょう。 音楽の専門家の視点とは異なる点が興味深いことです。
ただし、美術においても、文化財の修復保全活動においては、重要なのは技術だけです。 修復を担当する人は、自分のオリジナルな芸術性を殺して、美術作品を、それを作った芸術家が作った通りに、復元しなければなりません。 デッサン力や筆致といった、訓練された技術が必要であって、芸術は不要です。 何年か前に、スペインで、文化財の古い壁画を地元の画家が修復したら描かれていた兵士の顔がマンガチックになってしまったというニュースが物笑いのタネになりましたが、あれは、文化財の修復だからいけなかったのです。 その画家の自作品であれば、本人がそれをどのように修復しても、誰も文句は言いません。
狩野探幽の絵を修復した人の名前は、どんなに素晴らしい技術で完璧に修復再現しても、決して歴史に名をとどめることはありません。 だって、その絵を描いた本人じゃないから。 狩野探幽の名前だけが、歴史に名を刻みます。 
 
音楽の世界は美術の世界とは異なります。 古い作品は、作曲家本人が演奏した録音が存在せず、楽譜しか残っていません。 一方で、セロニアス・モンクの演奏を、寸分たがわずに演奏するプロのピアニストはいません。 モンク大師の演奏は、録音されて残っていて、今でもCDなどで聴けますから、本家を完コピした演奏に、価値は無いからです。 モンク大師の作品を素晴らしく演奏するピアニストたちの価値は、彼ら流の解釈によるアレンジや、彼ら独自の世界観を色濃く出した即興演奏であり、彼らオリジナルの創作の部分に価値があるわけです。 この点が、本家の録音が残っている現代の音楽ジャンルと、本家の録音が残っていないクラシック音楽の世界との、決定的な違いです。 本家の録音が残っていないことは、ある意味で、都合がいいこともあるかもしれません。 バッハの曲に強弱記号やスラーがついたピアノの楽譜が一般に出回っていますが、バッハのピアノ楽譜は、どこかの誰かがピアノバージョンにアレンジしたものであって、バッハのオリジナルではないはずだ、だって、バッハが書いたピアノ用の曲は無いはずだから(ハープシコード奏者が、ピアノ弾きの参考になればと、バッハの超有名な曲の弾き始めの演奏の仕方を説明する動画を見たが、私が持っているその曲のピアノ譜には別の指示が書いてある。私がピアノのレッスンで習ったのは、バッハのオリジナルではない、誰かがピアノ用に編曲したものだった、ということがわかった。ピアノフォルテ以前の古い鍵盤楽器でバッハなどのバロック音楽を弾く人たちの気持ちがようやくわかった! バッハの鍵盤楽器用の曲をピアノで演奏することは、リストのピアノ曲をシンセで演奏するのと同じぐらい、本家とは全く別物であるのは当然のことだ。 もちろん、小説の名作を活版印刷してもパソコンでプリントアウトしても手書きで書いても内容の素晴らしさが寸分たがわず変わらないのと同じで、アウトプットのツール(楽器)が何であっても、名曲は名曲だ。 1970年代に冨田勲が、ドビュッシーピアノ曲を当時のシンセサイザーでレコード化しているが、それを「際物(キワモノ)だ、けしからん!」と言う人は、あまたの人たちが正統派ヅラしてピアノで弾きまくっているバッハの鍵盤曲のピアノ演奏も「際物(キワモノ)だ、けしからん!」と言うだろう)。
 
手踊りのようなタッチについては、私も目撃したことがあります。 弾き語りをする音大ピアノ科の生徒さんが、曲の最後の音を弾き終わった際に、その鍵盤を押し終わった右手を、5秒以上かけて、右腕全体を蛇か何かのようにゆっくりとしならせて演奏動作を終えたのを、目撃した時に、とても異様なものを感じました。 もう、音はとっくに出てしまっているのに、あの無意味で奇怪な動きはいったい何なのか?とおもいました。 何かの呪い(まじない)ですか? ああいう無意味で奇怪なモーションのことを、兼常氏は上記の文章のなかで「手踊[ておどり]」と呼んだのでしょうかね?
 
たしかに、何かの呪い(まじない)なのでしょう。
 
ピアノ曲の模範演奏動画で、偉い先生が、鍵盤を押した後に作為的に手首を振り上げて、あたかもタッチをアピールするかのように演奏している動画があります。 あの、わざとらしい腕の動きは、メタルバンドのボーカルが長髪の頭を連獅子のごとく振り回してシャウトして歌うのと同じ効果があるものだなぁ、と思いました。 メタルバンドが慎ましく歌っては、見ている方としては有難みがないもんね。 有難みは、イリュージョン。 音楽は、耳で聴く。 イリュージョンは、目から入ってくる、顔だちや髪型や、衣装や肌の露出度、そして人目を惹く動き。 結局のところ、演奏というものはヴィジュアルなエンターテインメントなんだなぁ、と思いました。 
 
 
そしてご令嬢やご令息たちなどの上流階級の人たちは、客席の特等席に座って、うつらうつらしながらステージ上のエンターテイナーの芸を見たり見なかったりしている。「お持ち帰り」を企む人もいるかもしれない。 洋の東西を問わず、いつの時代も、絵島生島(えじまいくしま)みたいなことは、芸術と表裏一体だ。 
 
それがわかっていても、オリジナルの作品を創造して自己表現せずにはいられない人たち - それが芸鬼(芸術の鬼)。 きれいな衣装を着てスポットライトを浴びたい人たちは、自分をカラッポにして誰かの創作物をなんの迷いもなく受け入れて媒介するアイドル(偶像)という芸能に憧れる。 芸術も芸能も、次元は異なるが、自己陶酔の快感をもたらす。 (ちなみに、日本の伝統芸能の中には、伝統を受け継ぎつつ新たなコンテンツを作り出して伝統を更に大きく豊かにしていくという、崇高な芸術がたくさん含まれていることに、日本人自身が留意すべきだ。)
 
 
演奏家などいう怪しげな中間の存在物」と兼常氏は書いていますが、演奏家は、自分をカラッポにして、作曲家(芸術家)が作曲した作品と、それを鑑賞する人々をつなぐ、「アイドル(偶像)」という名のメディア(媒介物)です。 メディアは、神々のご神託を人々に伝える巫女に始まり、後に白拍子や芸者・幇間などになっていく、エンターテイナー(芸能人)です。 脚本家や演出家の指示(=ご神託)どおりに動くバレリーナやダンサー、役者と同じ身分です。 野口三千三氏が芸大にサーカス学科やチンドン学科を作るべきと唱えたのは、極めて的を得ています。 芸能は、玄人(くろうと)の覚悟がないと、単なる素人芸です(そして素人芸には金銭的な価値は無い)。
演奏家や俳優、ダンサーが、自ら芸術作品を創作して演じる場合は、「作曲家」や「劇作家」や「演出家」といった、芸術家として歴史に記憶されていきます。 芸術家とは、自分の中で神々のご神託を創り出す存在です。)
 
演奏家のほかにも、「怪しげな中間の存在物」が存在するのでしょうか。 ピアノフォルテがなかった時代の作曲家が当時のキーボード楽器用に書いた曲の、ピアノ用にアレンジされた楽譜とか?(演奏のための指示を追加することもアレンジです) 偉大な作曲家の偉大な曲を弾くために後世の誰かが書いた練習曲の楽譜とか?
 
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