ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

老化に抗(あらが)わない

 

以下は、20211102にアメブロに書いた記事:

 

5年前にピアノを再開して、つくづく思うのは、

5年前に思い切って再開して良かった、ということだ。

 

この5年間で、物覚えが悪くなったのを感じる。

若いころと比べたら、なおさらだ。

なかなか覚えられない。 

長い時間をかけてやっと覚えられても、

覚えたことを応用できる柔軟性が減っている。

 

だから、

中高年でピアノを一から始める人が直面する壁が、想像できる。

これは大変だよ...。

レッスンに通おうものなら、

先生からダメ出しの嵐を受けざるを得ないだろう。

だって、

覚えられない、

覚えてもすぐに忘れる、

頭も身体も柔軟性が無くなっている、

指が動かない、というか、

姿勢が悪いままで固まってしまっている。

 

大変なのは、

クラシックピアノだけではない。

ジャズピアノも大変だ。

ジャズピアノは、脳の高度なスポーツといえる。

たくさんの決まり事を覚えた上で、

覚えたことを脳内で統合して音楽的知見を集積し、

演奏するときに、それらを臨機応変に組み合わせて瞬時に応用して実行することだからだ。

歳をとっていくと、

覚えて統合 と、 瞬時に応用&実行 が、

みるみるできなくなっていく。

プロでも同様の老化が起こる。

何年か前に、海外在住の高齢のジャズピアノの重鎮の演奏をテレビで視たが、

アドリブの反応が遅く、ケンバンの上で指がうろつくのだ。

ケンバンの上で指がうろつくのは、脳の反応が遅くなっているからだろう。

第一人者さえも、老化には逆らえない。

 

それに加えて、

歳をとると、経済的な問題も出てくる。

とくに、医療費の増加だ。

私の場合、最近の医療費の増加がすごい。

人間ドックの結果が「要再検査」のデパートみたいになってきたからだ!

何年かしたら作曲をもう一度習おうかな~、なんて思っていたけれど、

その前に、病院通いだよ。

もう何年もレッスンに通ってないけど、

もはやレッスンに通おうとする場合じゃなくなってきた!

 

それでも音楽は続ける。

老化に抗(あらが)わずに、穏やかに続けていくよ。

ピアノ演奏のレッスンに通うことは、もうないだろう。

ヘタな先生からダメ出しを受け続けて、「できない」焦燥感とストレスでヘンなものが身体にできても嫌だからね。

私がかつて一瞬だけ習った著名ピアニスト先生は、励ましの嵐をくれる、とても良い先生だけど、良い先生はレッスン代が高いし、私には旦那(パトロン)稼業ができるほどの余裕は無い。  芸術家にお金を払って芸を教えてもらう行為は、実質的には旦那(パトロン)稼業だ。 

 

病院ってなにげにお金かかるな~。

しかも、病院に払うお金はケチれないからね、

まだ症状が軽いうちに対処して、長生きしたら、

そのぶん音楽を長く続けられるから。

病院は通える時に通っておくのが良いと思う。

どんなにピアノが上手くても、死んじゃったら消えちゃうからね。

私は、まだ生きている。 それに、

独学で演奏姿勢を探求した結果、

子どもの頃よりも今のほうが、メカニカルな演奏能力が各段に上がって、演奏するのが楽しい。

楽しいけど、老化で脳がもたついてきて、覚えられないし、間違える。

それに、弾くのが楽しくてたくさん弾くと、指がおかしな感じになるようになってきたので、これも老化だろう。 最近は、弾く力を加減したり、弾く時間を短くしたりしている。

 

ケンバンを弾かなくてもできることはいっぱいあるから、それをする時間が増えて、かえって良いかもしれない。

 

これからの人生、

自分で楽しく試行錯誤しながら、

自分が心地よいペースで独学しながら、

細く長く、音楽を楽しんでいく。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

老化に抗(あらが)わない | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

tokyotoad