ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

ピアノと他の「芸」との相関関係

 

優れたケンバン奏者(ピアニストやキーボディストやオルガニストなど)は他の芸能芸術分野でも優れている、という正の相関関係があると、私は感じている。 

 

ケンバニスト(ケンバン奏者)に限ったことではない。 一芸に秀でた人は、ほかのジャンルにも秀でる傾向がある、と私は感じる。 これは当然といえば当然で、一人の人間が持つ芸術的コンテンツと表現形態は、その表現メディアが楽器であれ文章であれ絵画であれ何であれ、一貫して変わらないからだ。 むしろ、表現メディアによって多重人格者のように変わるほうが、おかしい。

 

私が一流以上と思う優れたミュージシャンたちは、自分が専門とする楽器以外の楽器でも味のある演奏をしたり、話芸や文芸や美術といった他の芸能芸術表現にも秀でている人ばかりだ。 

 

言い換えれば、【コンテンツ力+コミュニケーション能力】が優れている人たちということだ。 他者がおいそれとマネできない、独自のコンテンツを持っていて、自己表現力が高く、しかもそれを相手側に受け入れてもらえるように伝える力。 自分の美意識や考えを、効果的に表現できて、それを相手に伝えられて、相手の心を動かすことができる、【コンテンツ+デリバリー能力】が高い人たちなのだ。 

 

音楽産業の第一線で活躍するミュージシャンは、一様に、コンテンツ力と、それを伝えるコミュニケーション能力が高い。 これは、音楽産業に限ったことではなく、どんな業界でも、【コンテンツ力+コミュニケーション能力】が高い人が成功するように、世の中は出来ている。 なぜなら、人間社会は多数の人間で構成されていて、社会で成功するためには、なるべく多くの人間に受け止められ共感され感動されることが死活的に必要だからだ。 

だから、

一流のミュージシャンになればなるほど、ステージトークが見事だったり、ブログやSNSなどに記す文章が秀逸だったり、絵画や造形にも秀でていたりする。 本物の芸術家は、ジャンル横断的に、芸術家だ。 メジャーな例では、岡本太郎氏や、山下洋輔氏だ。 絵画や造形芸術の鬼才岡本太郎氏の著作を読むと、氏の人間パワーが感じられる文章に圧倒される。 「芸術は爆発だ!」のフレーズで有名な岡本太郎氏だが、氏の独自の芸術性は、絵画~造形~文章~書道と横断的に、爆発している。 岡本氏は自宅にアップライトピアノを所有して演奏したが、氏のピアノ演奏も芸術が爆発していたことは間違いない。 聴いたことがなくても、わかる。同一人物による芸術表現だから、爆発していなかった筈がないのだ。 岡本氏のピアノ演奏は、技術だけしか持ち合わせないピアニストたちの味気のない演奏を吹っ飛ばす芸術に満ち溢れていたことだろう。 (氏が所有していたピアノは、表参道駅に近い岡本太郎氏の美術館(生前の岡本氏の自宅)に展示されている、と記憶する)。 

 

大江千里氏についても、根っからのクリエイターなんだなぁ、と思う。 ポップスだけ!とかジャズだけ!というような表現形態に収まらない、全方位的に創造力を発揮していたい人なのだろう。 大江氏は執筆活動も活発だ。 NYでジャズピアノ修行する日々をつづった著書の文章量の多さは、ちょっと異常だ。 よくあんなにたくさん書けるなぁ、と思うが、大江氏は根っからのクリエイター&表現者だから、いつも何かを創作して表現し続けていないと、魂の風通しが悪くなって魂が死んでしまうのだろう。 マグロは泳ぎをやめて静止してしまうと死んでしまうそうだが、クリエイターや表現者もそうなのだろう。 常時創造&表現していないと、魂の風通しが悪くなって、魂が死んで廃人同然になってしまうのだ。 

 

一流のミュージシャンにトーク巧者が多いのも、「一芸に秀でる者は他芸にも秀でる」の好例だ。 前述の山下洋輔氏は洒脱な文章を書くエッセイストとしても知られている。 過去に、山下洋輔氏のライブを聴きに行ったことがあるが、曲の間のトークの、その喋りの如才無さ。 エッセイストとしても著名な理由がよくわかった。 

 

ほかにも、著名なベーシストやケンバニストやホーン奏者など、一流ミュージシャンにはトークの達人が多い。 あるいは、書く文章の内容が興味深くて、しかも、読ませる文章を書く。 ブログやNoteやSNSなどに載せる文章には、その人の人間性が出るが、みなさん一様に興味深いコンテンツを、読みやすい文章で綴る。 読みやすい文章は、その人の脳の中が整然としていることを表す。 脳内で思考や情報が整然と行き交っている、イコール、脳の稼働率が高い、イコール、頭が良いということだ。 頭が良い人が書く文章は、整然としていて読みやすく、誰が読んでもわかりやすい。 

 

美術分野に秀でるミュージシャンも多い。 数多くの大ヒットをとばした大御所アーティストは水彩画が趣味だったと、記憶している。 自分のアルバムのジャケットに自作の絵画を使っている超一流ギタリストさんがいる。 唯一無二の強烈な世界観を表現する某ピアニストさんは、文章が面白いうえに、すでに子供時代に、驚くほど複雑な、異彩を放つ絵を描いている。 美しくも複雑鮮烈な異界の音楽を紡ぎだす鬼才は、絵画や造形や文筆においても、一貫して鬼才だ。 一芸に秀でた人が他芸にも秀でている例は、一流以上のミュージシャンに数多く見られる。 

 

逆も言えるわけだ。 ブログの文章が???だったり、どこかから単にコピペしたような内容だったり、耳にタコができるような使い古された内容だったり、稚拙な内容だったりするピアノ教師は、レッスンでのコミュニケーション能力も???だったり、教える内容も、どこかからのコピペしたような内容だったり、耳にタコができるような使い古された内容だったり、稚拙な内容だったりするだろう、と想像できる。 どうしてそうなってしまうのか、というと、当人が自分の脳と身(=実)でいっぱい汗をかいて苦しみもがいて獲得した内容ではないから、皮相的で虚ろに響くコンテンツになってしまうのだ。 そういう、コンテンツ力の低い人は、ピアノ演奏の表現力も推して知るべしだから、ピアノ演奏に芸術性が貧しく、したがってピアノ演奏が下手だろう、と容易に想像がつく。 と、このように、ピアノを習う場合に、ピアノ教師を厳しく選定する際の有用な判断基準になる。 芸術表現力とは、「自分や作曲者が日々の血と汗によって築き上げた独自のコンテンツを他人に的確かつ効果的に伝えて、その人の心を動かす、コミュニケーション能力」に他ならないからだ。 ピアノは機械操作ではなく芸術活動だと、私は信じている。 コンテンツ力が乏しく芸術表現力が貧しいピアノ教師に教わると、機械操作のようなピアノ操作法がことさらに上達することだろう。

 

tokyotoad