ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

「楽器の演奏」と「音楽の探求」は切り離して考えたほうが良い

以下は、20211206にアメブロに書いた記事:

 

「楽器の演奏」と、「音楽の探求」は、

全くの別物である。

と、私は思う。

 

「そんなことはない!」

と言う向きもあるだろう。

 

ここで私が言う

「音楽の探求」とは、

「音楽とは、一体どのようなものであるか?」

を探求することである。

つまり、私が意味するところの

「音楽の探求」とは、

「作曲や音楽文法/理論の探求」のことである。

作曲家や音楽理論家、そして、

即興演奏/作曲/編曲を行える演奏家の領分である。

 

だから、

「楽器の演奏」と、「音楽の探求」は、

全くの別物である。

と、私は思うのだ。

 

なぜなら、

市井(しせい)のピアノ教師のほとんどが、

「ピアノの演奏法」だけを教えるからだ。

専業のピアノの先生からは、

ピアノという楽器の弾き方は習えるけれど、

専業のピアノの先生は、

音楽についての経験と知識が無い、あるいは、

無いに等しいくらいに乏しい。

だから、

音楽について習いたかったら、

作曲家、または、

作曲や即興演奏や編曲を行える演奏家に習う他に、方法は無い。

または、独学である。

 

「ピアノの演奏法」とは、基本的には、

「ピアノの演奏法」である。

だから、それは、

「ギターの演奏法」ではないし、

「三味線の演奏法」でもないし、

「電子オルガンの演奏法」でもないし、

シンセサイザーの演奏法」でもない。

 

これに対して、

「音楽の探求」とは、

ケンバン楽器、ギター、弦楽器、管楽器など、

すべての楽器を網羅する。

もちろん、

「日本の音楽の探求」と、「西洋音楽の探求」とは違う

しかし、

三味線や琴や尺八を演奏する場合にも、

西洋音楽を知っていると、断然有利だと、私は思う。

同じく、

20世紀の西洋音楽には、

日本など非西洋文化の音楽の影響を受けている。

日本の伝統音楽や大衆音楽を知っている日本人は、

世界のどこへ行っても

音楽において独自の強みを発揮できる。

 (私たち日本人には、日本で生まれ育ち生活する中で

  否応なく日本の音楽に染まって生き、自己表現しているから、

  別に気負って日本の音楽を勉強する必要は無いかもしれない。)

 

私のピアノについては、

身体スペック的に鑑みると行くところまで行った感がある。

4年以上の姿勢改善の努力によって、

ピアノを習っていた子どもの頃よりも

格段に左手の演奏に幅が出てきて、

しかも、人生で最も良い音で、最も力強い音で弾くことができるようになり、

そして音色や音の強弱のコントロールが最もできるようになった。

それにともなって、身体能力が原因のミスタッチが格段に減った!

一方で、寄る年波で脳がボケてきたことによるミスタッチが増えてきたえーん

だが、(お金は無いけど)自由な時間が増えたので、

その分時間をかけて覚えれば、何とかなるだろう。

いずれにしても、

還暦が近づき、これからは、身体の老化によって、

音のキレや伸びが鈍くなったり、筋肉動作のスピードが遅くなったりして、

今よりもピアノの演奏技術が向上することは無いかもしれないなぁ、と、うっすらと感じる。

 

だからこその「音楽の探求」である。

「音楽の探求」は、楽器を選ばない。

そして、

「音楽の探求」によって、不要なミスタッチをしなくて済むようになる。

私は、そう実感している。

また、

楽器演奏が身体的に限界にきたら、

DTMで続ければいいだけの話だ。

 

「楽器の演奏」の道は、身体の老化とともに、

どうしても厳しいものにならざるを得ない。

超一流の演奏家でも、身体の老化に抗(あらが)えない。

これに対して、

「音楽の探求」の道は、楽器を選ばないし、

身体機能が劣化しても、一生続けられる道だ。

作曲家や、作編曲&即興演奏を行う演奏家に音楽を習うと、

「楽譜どおりに間違えずに弾く」至上主義の外に無限に広がる

音楽の宇宙へと自分を解放できることだろう。

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

「楽器の演奏」と「音楽の探求」は切り離して考えたほうが良い | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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