おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

プロに教えてもらう際の覚悟(続き)

 

以下は、20220128にアメブロに書いた記事:

 

ずいぶん前に書いた記事:

プロに教えてもらう際の覚悟

では、

本題の内容にたどり着く前に筆の力が尽きてしまった。

 

 

私が書きたかったのは:

 

演奏の仕事で何とか食べていけている

本当の意味でのプロのピアニスト、 つまり、

本当の意味でのプロのミュージシャンに、

素人が音楽や作曲や楽器演奏を教わる場合は、

そのプロのミュージシャンの

旦那(=パトロン/経済的な支援者)になる覚悟

が必要だ、

ということだ。

 

現実の世の中では、

音楽でも絵画でも日本の伝統芸能でも、なんでも、

「芸を極める」だけでは、経済的に自活していけない。

だから、これら芸術芸能の世界で成功するためには、

当然その道の芸を極めて、プロとして

お金を放ってもらえるだけのパフォーマンスができることは、絶対条件だが、

それに加えて、 言葉は悪いのだが、 

芸術芸能の世界で成功するためには、

「人たらし術」に長けていることが、どうしても必要だ。

芸術家(エンターテイナー)は、

お客さんに好かれ愛されてナンボなのである。

演奏の請負仕事であれば、

プロ業界を満足させるに足る演奏の実力... に加えて

クライアントから気に入ってもらえることが死活的に重要であり、

一般のお客さん相手のコンサートやライブ活動であれば、

自分を愛してくれて、雨が降ろうが槍が降ろうが

どんな時にも会場に足を運んでくれるお客さん、つまり、

忠誠心の高い熱烈な固定ファン層を獲得して維持することが、

芸能生命を決定づける。

 

これは、ある意味、

芸術芸能で生きる人たちの、定めである。

なぜならば、

芸術芸能は、人間の基本的な生命の維持には

必要ないものだからである。

もちろん、農家だって、

トイレットペーパーを作る製紙会社の社員だって、

ビジネスのためには対人のコミュニケーションスキルは必要だが、

食料や生活必需品ではない芸術や芸能を売るためには、

人からお金を頂戴できる芸の高さ&確かさは、最低限度のデフォルト条件に過ぎず、

芸の高さ&確かさ、プラス、

より一層、人様に気に入ってもらえる魅力を持っていないと、

芸を買ってはもらえない。

 

プロとして一応成功している芸術家(エンターテイナー)たちは、

一様に、この

「人に気に入られる術」に長けている。  さらに、

誰が気前よくお金を払ってくれるか?についての

鋭い勘を持っている。 というか、

浮き沈みの激しい芸能活動でサバイバルしようと何年ももがくうちに、

「カネが有る場所に対する嗅覚」が鍛えられて、鋭く研ぎ澄まされてゆくのだ。

そうでなければ、とっくの昔に、

芸能活動がたち行かなくなって廃業しているはずである。

だから、彼らは、パトロン探しが上手い。 

誰が気前よくお金を払ってくれるか?を勘ぐる嗅覚に長けているのである。

そして、

そのような特徴こそ、

芸能界の第一線で活躍している芸術家(エンターテイナー)の印(しるし)なのである。

 

というのが、

私が一流のプロのピアニストさんのレッスンを

一時期だけではあるが、受けたときの印象である。

もっとも、半世紀生きてきて身体を壊したことを機に、

人生にすこしゆとりを持って生きようと、 

芸能界の住人である「先生」方が素人相手に教える

趣味の教室に、短期間ながら

何種類か通ったことがあるので、

芸能人に習うことが一体どういうことなのかについては、

おおよそわかってはいたのだが、

ピアノ演奏の業界も、類にもれず、同様だった!

ということを、再確認したのである。

そして、個人的な経験上、

芸能界の住人であるプロに習ったジャンルで、

ピアノほどお金がかかるジャンルは無かった。

だが、これは私個人の場合であって、 たとえば、

茶道や日舞なんて習った日には、

衣装代(着物)だけで何百万円かかるかわからない道楽である。

しかも、

ピアノならグランドピアノを1台買いさえすれば、

防音室の施工込みで、1~2千万円ぐらいの

一時的な出費で済むだろうが、

茶道や日舞の着物は、

1回着たらもう次回は着られないぐらいのノリで、

発表会が有るごとに毎回着物を新しくあつらえなければ

「大人の生徒」としての格好がつかないだろう。

加えて、茶道なら

先生が高価な茶器をあつらえる際の協賛金のようなものや、

先生主催の夏合宿の費用プラス夏合宿用の着物のあつらえもあるだろうし、

庶民からすれば、お金を湯水のように捨てるような

恐ろしい世界である。

それに比べたら、ピアノはまだカワイイものであろうが、

私のような庶民にとって、

一流のプロのピアニストさんに習うことは、

ベラボーに高額な道楽であることを、

私は思い知ったのだ。

私のケースでは、

そのピアニストさんに月に2回習うだけで、

年間で50万円以上が軽く吹っ飛ぶ計算になる。

それに加えて、

発表会への参加には、四捨五入して10万円か、

人によってはそれ以上がかかり、

加えて、 

ピアニストさんだけに本職は演奏活動だから、

ピアニストさんが月に幾度も主催/出演するコンサートに

最低でも月イチぐらいは顔を出さないと、

「大人の生徒」として格好がつかないから、そうするだろうし、

CDが発売されれば、当然購入するだろうし、

等々の金銭的な出費がかかる。

理想的には、

先生が主催するコンサートのチケットを

「友達も誘おうと思っているの」と言って

10枚ぐらいまとめ買いしたり、

先生が販売する新作CDを

「友達にも配ろうと思うの」と言って

10枚ぐらいまとめ買いするくらいじゃないと、

大人の道楽としては、醍醐味が無いだろう。

もちろん、これらのための交通費や、

発表会用に自分の衣装をあつらえる費用は別途かかるわけであるが、

先生のためだけに相当のお金を使うことになる。

 

つまり、その金銭支出の額からして、

ピアニストさんの生徒は、 もはや、

「生徒」なんていう身分ではない。 実は、

「生徒」というのは名目上の呼び名で、

事実上は、

「先生」という名目の芸人(ピアニスト)さんの

経済的な支援者つまり、

「旦那」「パトロン」なのである。

 

これは、ピアノに限らず、

他のあらゆる芸事に共通することだ。

 

つまり、

大人の趣味のお稽古の王道とは、

芸人さんを経済的に支援する旦那稼業なのである。

旦那稼業なので、別に、お稽古なんか受けなくても

贔屓にする芸人さんにお小遣いをあげれば済むことなのだが、

芸人さんに何もさせないで、

こちらから一方的にお金をあげれば、

芸人さんを「おこもさん」にしてしまうことになるので、

「芸人さんに芸を教えてもらう代わりに謝礼としてお金を払う」

という体(てい)にして、芸人さんを経済支援するのだ。

芸人(エンターテイナー)たちは、もちろん、

河原者としての自覚と覚悟を持って芸能界で活動しているのだが、

河原者には河原者の矜持が有る。

芸を見せずに、または、芸も教えて差し上げないのに

お金だけ投げてもらって「おこもさん」扱いされるのは、

河原者のプライドが許さないのだ。

 

カタギの素人が住む世界と、

藝術芸能界の住人の世界の間には、

かくも厳しい結界が存在する。

カタギがカタギの身分をわきまえて「旦那稼業」でいるうちは、

芸術芸能界の住人は、旦那たちを下にも置かない扱いをしてくれる。

しかし、

ひとたび、カタギが、

「あわよくば自分も芸術芸能界の住人になりたい」と

色気心を出してプロの先生に弟子入り目的に近づいた途端に、

彼らの「芸能スマイル」の愛想笑いの顔はガラリと豹変し、

彼らは芸鬼の本性を表すだろう。

    (↑あるいは、その良し悪しはともかくとして、

    名目上は「弟子」で実質上は「旦那」のままで

    扱う芸鬼たちも、中にはいるかもしれない。

    自分にどこまでもついてきてくれて、しかもお金も潤沢に持っている

    「弟子兼旦那」や「生徒兼旦那」という存在が、

    彼らにとって最もつなぎとめておきたい存在に違いない。)

 

芸のプロたちから、たとえそのように見られているとしても、

もし旦那稼業ができる余裕が有るのならば、あるいは、

芸のプロから本物のプロの芸を教わりたいと思うのであれば、

私のように、一瞬でも習うと、得るものは大変大きい、と実感している。

 

教科書英語が実際の世界で使い物にならないのと同じで、

カタギの世界のピアノの先生(素人音楽)のレッスンと、

プロの世界で見世を張っている本物のピアニスト(玄人音楽)のレッスンは、

その内容や方向性や目指すところにおいて、

何もかもが異次元的に違うからだ。

当たり前だ。

プロの世界で演奏で見世を張っている本物のピアニストは、

プロ(玄人芸)であって、

カタギ(素人芸)ではないからだ。

 

私が、このプロのピアニストさんに習ったときの模様については、

2年ほど前に旧ブログにまとめて書いた。

プロのピアニストさんが持っている「良い魔法」について、 そして、

私が、プロのピアニストさんにかけてもらった「良い魔法」を、市井のピアノの先生に絶対に解かれたくなかったことについても、当時の下記の記事の中に書いている:

     右下矢印右下矢印右下矢印

 

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

プロに教えてもらう際の覚悟(続き) | おんがくの細道

 

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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