音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

大人のピアノお稽古が続かない理由(その③)

 

大人のお稽古事が長続きしないことには、ピアノのお稽古特有の要因もあるのではないかと思う。

「理由① コスパが悪すぎ!」と感じたり、

「②「おカネ」+「時間」+「満足」の総合的な収支バランスがマイナスだから!」と感じたりする原因が、

これだと思うよ:

 

③ おカネに関する認識の違い: 

 

おカネを払う側が見下される世界

もし私が大人のピアノ教室の経営者だったら、おカネを払ってサービスを買って下さる大切なお客様のことを、「ピアノ愛好家の皆様」や「ピアノを愛する方々」とお呼びする。 ピアノを愛する大人は皆、ピアノの「愛好」だ。 自分のお金でピアノを購入して、演奏したり、自動演奏を聴いたり、満足げに眺めたりと、様々な形で楽しむ人は「愛好」だ。 だから、「生徒」「生徒さん」「生徒様」なんて絶対に呼ばない。 そして、支払い能力を持っている大人のお客様を、子どもとは絶対に混ぜこぜにしない。 子どもの気を引くためのおもちゃや絵本やなにやかやが転がるロンパールームのようなピアノ部屋に大人のお客様に入っていただくようなことは、絶対にしない。 当然のことなんだけどね、ピアノ教師業界にはその意識が欠けていると感じる。     

「生徒」の「徒」は、劣った地位の人間を意味する。 生徒・学徒・使徒・暴徒・徒弟。 「徒」は、地面を歩く(人)という意味だそうだ。 つまり、馬や神輿に乗った偉い人から見降ろされ、地べたを歩いて御供をする下々の人間たちのことだ。 JR上野駅のひとつ南にある「御徒町(おかちまち)」駅にも「徒」がついている。 「御徒町」は、江戸時代に、「御徒衆(おかちしゅう)」と呼ばれる、馬や「あんぽつ駕籠(かご)=江戸時代の黒塗りリムジン」に乗って移動する主君を、地べたを歩いて御供をする下級侍たちが住んでいたことからその名がついたそうだ。 だから、主君から見下ろされる「身分の低い劣った者」という意味合いを持つ「徒」が使われてる「生徒」に「さん」や「様」をつけても意味不明で何にもならない。 

身分制度が廃止された現代の資本主義の一般社会においては、カネを払う者は「顧客」として上座に奉(たてまつ)られて、カネを頂く者が下座にへり下る。 カネを払う行為は、物品やサービスを買うにとどまらず、カネを受け取る者に頭を下げられかしづかれることによって自分の優位性を認識して幸せを感じる意味合いも有る。 だからブランドショップの店員は、どんな客にもかしずいて、下にも置かない扱いをするのだ。 おカネをもらうためには、お客様が求める商品やサービスを取りそろえて、お客様の前にひざまづき、お愛想を言って誉めそやし、お客様の財布のヒモが緩むようにお客様を気持ちよくさせる。これが、企業相手ではなく一般消費者を相手にする商売だ。 

ピアノ教室は一般消費者相手の商売だが、ピアノの先生たちは、おしなべてその意識が低い。 一般社会で働いた経験が無い人が多いからだろう。 「私はそうではない!」と思う人もいるかもしれないが、風貌や物腰や表情や物言い、とくに気配り気働きができるかどうかで、社会経験の有無がすぐにわかってしまう。 会社に属して、取引先に頭を下げ、社内では上司の指示に従い、同僚たちと意思疎通を図って協力しながら、日々職務を遂行して給料をもらう活動は、たいへんな気配り気働き能力を必要とする。 顧客に対して「売ってやる」的な殿様商売では、顧客に疎まれて案件を失うし、今は上司も部下からの評価が自分の成績に反映されるから、上司といえども部下に対して気を遣う必要が有る。 360度気配り気働きの世界だ。 ところが、一般社会で働いた経験が無く、立場の弱い子ども相手に上から教える先生稼業を続けていると、子どもも大人も関係なく「生徒」として見下げて「指導する」ようになってしまう。 一方、360度気配り気働きの世界で生きてきた大人は、カネを払って見下される扱いに慣れていない。 また、大人にとって「指導」とは嫌な言葉である。 大人になって「指導」を受けるのは、勤務態度が悪かったり不正や違法なことを行ったりと、社会的にしくじった時だからだ。 「行政指導」と聞いて良い印象を持つ人はいないはずだ。 だから、カネを払ったのに、気の利かない世間知らずから「見下され」て「指導」を受けることに普段の生活で慣れていない大人は、不快に感じてレッスンをやめてしまう。 大人の「生徒」がすぐやめるからマズいと、大人の「生徒さん」に気を遣おうにも、気の遣い方の機微を知らないので、逆に地雷を踏んだり、大人の「生徒様」に「指導」することが何故悪いのかがわからないのだろう。

     

 

領収書の無い世界

大人のピアノ愛好者の住んでいる世界と、ピアノの先生の住む世界が、違うから、「私の常識、あなたの非常識」になって、互いに理解できずに終わってしまう。 たとえば、レッスン代金の支払い。 大人になってピアノを再開し、子どもの頃の先生に再び習いに行った私は、レッスンが終わってその日のレッスン代を支払うときに、先生の目の前で封筒に入れた新札を取り出して、「今日のレッスン代の〇千円です、お確かめください」と、金額を確認してもらおうとした。 すると、先生は顔をそむけるように「おカネは取り出さなくていいわよ」みたいな仕草をした。 住む世界が違うことがよく分かる瞬間だった。 私が学校を卒業して飛び込んだ一般社会は領収書が発行される世界だ。 コンビニでもどこでも、おカネを払ってモノやサービスを買ったら、かならずレシート(領収書)をもらう。 コンビニのレジがチン!となった瞬間に、私が支払ったおカネはコンビニの会計システムにレジスター(登録計上)され、コンビニの売上帳簿に記帳され、それらが本社の経理システムに計上されて、企業決算の計算の大元(おおもと)になっていく。 おカネを払った私が受け取るレシートは、おカネのやりとりが行われた証拠になるものであり、コンビニにとっては、その年度の売上高を計算して業績を確認し納税するもとになるし、私が個人事業主で、その買い物が私の事業に関係するものであれば、レシートを保管しておいて、それをもとに確定申告の経費の計算をする。 だから、一般社会において、領収書(レシート)は、おカネのやり取りの証拠となる非常に重要なものだ。 そして、領収書を発行する際には、誰でも必ず、受け取った金額を確認する。 1円でも間違ったら大変だからだ。 例えば、ピアノの調律師さんは、調律代金として私が支払ったおカネを私の目の前で数えて金額をしっかりと確かめた上で、「確かに頂戴しました」と複写式の領収書を発行する。 複写の一枚を私に手渡し、本紙は調律師さんがその年の確定申告の計算に使うのだ。

そして、もしも私が自宅で開業するピアノ教師で、調律してもらったピアノが自宅のピアノ教室で使用するピアノである場合は、調律師さんから受け取った領収書は、自分のピアノ教室ビジネスの経費のバウチャーとして保管して、その年の納税額を申請する確定申告の際の経費の計算に使用する、という流れになるはずだ。

だから、一般社会で生きる者にとって、自分が渡したおカネの金額をその場で確認してもらえないどころか見てももらえず、しかも受け取りの証(あかし)すらもらえない状況は、あまり気持ちの良いものではない。 どうしてピアノの先生が、目の前でおカネを出して確認することを嫌うのか?  理由は、「自分がおカネを頂戴する、というか、おカネを投げてもらう身分であることを認めたくないから」なんじゃないか、と私は思う。 世の中、おカネを払う方が、おカネを頂戴する方より、地位が上になる。 優れた自分より劣った生徒に教えてやっているのに、生徒から手渡される現ナマは、「優れた自分 vs 劣った生徒」という優劣の構図を完全にヒックリ返すものだ。 それほどおカネの力(ちから)はすざまじく全能だ。 だから、おカネを封筒に入れて、生徒が手渡すおカネがおカネであることがわからないようにして渡してもらいたいのだろう。 一方、おカネを渡す私としては、せっかくの自分の支払いをおカネと認めてもらえず、自分がそのおカネをいくら払ったかの証拠ももらえない。 一般社会で顧客に頭を下げたり仕事で関与する人たちに気配りをしたりながら働いた結果として給与明細や振込明細をもらって銀行に振り込まれた自分の人生の時間を削って稼いだ自分の血と汗、つまりは自分そのものであるおカネが、お稽古事の世界では、一瞥さえされずに闇の中へうやむやに消えていく。 そういえば、子どもの頃に使っていた月謝袋とは一体なんなんだろう? ハンコを押してもらって返ってくるが、ハンコでいっぱいになった月謝袋は、どこへ消えていくのだろうか。 どっちにしても、調律サービスを頼んだ時のような領収書を、私が受け取ることは無い。    

私は、自分が払った証(あかし)が立たない用途におカネを使うことを止めて、ピアノ本体と調律サービスにおカネを使うことにした。 ピアノを買えば、楽器屋さんから領収書をもらえる上に、なんといってもピアノという物理的な形で、私の払ったおカネが姿を変えたものを目の前でいつでも確認することができるからだ。 そして、調律師さんは、ピアノの状態を耳に聞こえる形で整えてくれて、その仕事の対価として私が払ったおカネについて、必ず領収書を発行してくれる。 楽器屋さんも調律師さんも、私のおカネをしっかり確認して「確かに受け取りました」という証(あかし)に領収書をくれる。 私のおカネを真剣に見てくれて、しっかり確認してくれて、領収書を出してくれる相手に支払うほうが、私は気分が良い。 白日のもとで真剣に取り扱ってくれて、おカネもさぞかし喜んでいるだろう。  

 

領収書の無い世界の最たるものが、宗教だ。 初詣で投げるお賽銭に領収書は出ないし、投げる方も領収書なんて期待しない。 神仏へのお願い事が成就するかなんて誰も保証できないからだろう。 「明日朝起きたら玄関先に100万円が落ちていますように!」って願ってお賽銭箱に千円投げたって、明日になったら10円玉一つも落ちていないよ! 祈るよりも確実に100万円を手に入れる方法は、近所のコンビニでバイトすることだ。毎日数時間、1年間働けば、確実に手に入る。 お稽古事で領収書が欲しい場合は、企業が経営する教室チェーンに行けば領収書を発行してくれる。 とはいえ、「来月になったら、今月払った月謝の金額の分だけピアノが上手くなっていますように」って思ってもそうなるかなんて誰にもわからないし計測すらできない。 

領収書が出ない支払いは、神信心の「お布施」や、施(ほどこ)しの気持ちによる「ご喜捨」「ご報謝」なのだ。 そして、

ただひとつ確実なことは、

この世は、自らを助ける者が自らを助ける世の中であるということだ。 

 

芸能の世界も領収書の無い世界だ。 芸能人の「先生/師匠」から教わる芸事の教室で、教室を運営する会社に授業料を払って領収書をもらった金額は、多くの場合は「先生に会えて最低限の芸のまね事をちょっとだけ教えてもらえる」料金なのかもしれない。 言うなれば、吉原などの遊郭のシステムだ。 最低料金では、お目当ての太夫(たゆう)を見るだけ。 2回3回と通って、その都度、太夫(たゆう)が引き連れてくるお付きの者たちにご祝儀をはずみ、料亭から沢山料理を運ばせ、にぎやかしの芸者衆や太鼓持ちも呼んで、大金をバラまいて遊郭の経済に貢献してから、ようやく太夫(たゆう)を買うことができる。 今も昔も、夜の世界である芸事はそうなのだろう。 本格的に芸を極めたい人は、領収書が発行されることのない「ご祝儀」や「支援」「貢献」の度合いに応じて、アクセスが許される世界なのかもしれない。 ある芸事を何年か習っていわゆる「お弟子さん」にしてもらった知人は、結局「弟子」の身分を返上してその芸事の世界を去った。「おカネを払って奴隷のようにこき使われることに納得が行かなくなった」のがその理由だそうだ。 私も別の芸事で同じような経験をした。 私は授業料と、授業外の先生の興行のチケット代購入の他はおカネを使う気持ちがなかったので、いきおい「労働奉仕」による貢献を始めてしまい、最終的に「割が合わないや」と思って辞めた。 彼女の場合も私の場合も、お稽古を辞める際には先生や師匠との間で醜悪なスッタモンダが有った。 嗚呼!芸事のかくも深き沼よ! 芸能人は、領収書の無い所謂(いわゆる)「ご祝儀」の世界に生きていて、夜の世界の芸能界に特有の雰囲気を持っているから、発表会の直前の特別レッスンに対する謝礼(おカネ)をご祝儀袋に入れて差しだすことに何の疑問も持たなかったが、どう見ても芸能界とは無縁そうなカタギの奥さんにしか見えないピアノの先生の世界も同様であることが、バカな私にはよくわからなかった。 カタギの世界は、昼間の、素人の世界だ。 昼間の素人の世界が、夜の玄人並みのご祝儀経済で回っていることについて、庶民でバカな私は最後までよくわからなかったので、私の場合は一人で「大人のピアノ遊び」をすることに決めた。 決して「大人のピアノの練習」ではない。 自分のお金で、自分にとって満足の行くピアノを買って、調律師さんにメンテしてもらいながら、誰にも迷惑をかけずに自分で勝手に家の中で遊んでいるんだから、先生による指導は不要だ。 教育も指導も不要なのが、遊び。 

 

【20221124に追記】 どうしてピアノレッスンの月謝にピン札を求められるのか、ようやくピンときたよ!「ご祝儀」だからだよ!「ご祝儀」だからピン札にするし、「ご祝儀」だから領収書が出ないんだよ! ピアノ教師が芸人であることの証(あかし)だ。 こんな歳になって今ごろ解った私バカよね~! ピアノ教師への「謝礼」にピン札を!というマナーとは、芸能界のマナーのことだ。芸能界はピン札だからね。日本の伝統芸のマナーが西洋音楽の芸事にも連綿と息づいている。どっちみち日本人がやる芸事だからそうなっちゃうんだね。 滑稽なのは、ピアノ教師たちのほとんどが自分たちが芸人稼業であるとは微塵も思っていない点だ。「ピン札はマナーです!」。その通りだ。日本の芸人の世界のマナーだ。 

 

*ちなみに、誰かの作品を個人が自分の家の中で自分(と100歩譲って自分の家族)だけで個人的に楽しむために利用することに対しては、著作権使用料はかからない。 「発表」する場合は別だ。「発表」とは、自分の家の外で、自分(と100歩譲って自分の家族)以外の人たちの前で披露することだ。 ましてや、自分が編曲した楽譜をダウンロードサイトで販売する際には、音楽出版社に事前に使用許可をもらわないと販売ができないようになっている(はずだ)。 著作権の管轄官庁やJASRACに電話して問い合わせると親切に教えてくれる。 著作権が切れていない作品を編曲したり弾いたりして無断で動画サイトに上げると、原作者から侵害の申し立てを受ける場合が有る。 ヒドイ場合は、著作権もへったくれもないガチでパブリックドメインJ.S.バッハの作品を再生した音源をアップしてもYouTubeを介してどっかの国の誰かから著作権侵害の申し立てを受けることさえある。 申し立てを受けたのは私だ。 当然のことながら、私はYouTubeに対して「J.S.バッハの作品に著作権もクソもあるか!いますぐその申し立てを取り下げろ!」っていう趣旨の慇懃な文章のメールを日本語と英語で書いて送ったら1か月後に申し立てが取り下げられた。     

 

まだ続くのかな?

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