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自分の主導権を、決して他人に明け渡してはならない。
自分の主導権は、自分が握る。
これが、
大人のピアノは、出すぎた杭になる。
という、究極の最終形態を実現するための、アンカー(碇(いかり))、定礎です。
大人の生徒は、ちまたのピアノの先生からみると、とても厄介な存在だと思います。
大人の生徒は、
演奏の技術もないのに、
分不相応な曲に憧れて弾きたがる。
幼いころからピアノを習ってきた制度機構の中にいる先生たちが、そのように思う、
その気持ち、わかります。
そうなんです。
大人の生徒は、既存の制度機構の上空から、
ある日突然降ってくる、
隕石のような存在です。
大人のピアノは、
最初っから、ピアノ教育の制度機構から、
外れているのです。
外れているからこそ、非常に有利なことがあります。
子どもの頃からずっと習っている人が陥りがちな、
「師弟関係のダークサイド」(←by内田樹氏) に陥る必要がない。
子どもの頃から習っている素人(&素人ピアノのプロ)は、この罠にはまっているひとが多いため、
自分が先生からやられたように、
人の演奏を批判的にジャッジするマインドセットになっていることがある。
このような素人(&素人ピアノのプロ)は、他人の演奏を聴くと、
「ミスタッチした」とか
「運指がまちがっている」とか
「テクニックがお粗末」とか
「あんなテクニックでよくこの曲を弾こうと思えるな」とか
減点法でジャッジして、あげくのはてに
「俺はお前より上手く弾けるぞ」
と言わんばかりの言動と演奏で、
マウンティング&対決してきます。
実は、これらはみな、その人の劣等感の裏返しです。
だからこそ、
大人は、「出すぎた杭」になる。
「出すぎた杭」の世界は、制度機構の上空、というか、
別次元にある、
天上界です。
天上界は、人の足を引っ張るドリームキラーやバトル中毒者の手が届かない次元に存在する、
「出すぎた杭」ばかりがいる、
天上人たちの世界です。
「出すぎた杭」たちは、天上人。
だれかに、査定されたり比較されたりしたことがないので、
劣等感を持ったことがありません。
だから、劣等感から生まれる
示威行為や対決や足の引っ張り合いなんてことを、考えることすらありません。
「出すぎた杭」の別名は、「エリート」です。
私が今までに目撃した、エリートたちのピアノ演奏の話です。
なぜ、私が、「出すぎた杭」に「エリート」という言葉を充てたのか?
「出すぎた杭」も、「エリート」も、
素人(&素人ピアノのプロ)を消費する制度機構のはるか上空で涼しげに輝く星のようなもので、
制度機構の中にいる人が空に矢を放っても、星にはとどかない。
というか、
星に矢を放とうと考える人が、そもそもいない。 だって、
矢を放っても星には届かないことを、みんな知ってるから。
大人は、
流れ星(隕石)となって制度機構の中に堕ちて、制度機構の中に囚われの身でいる偏狭で近視眼的な輩たちに石ころのように踏みつけられるよりも、
上空で星のように涼しげに輝いているほうがいい。
石ころになって踏みつけられるよりも、
その上空に輝く星でいるほうがいい。
と思うわけです。
私が目撃した「エリート」による演奏 ①
バブル時代の終わりごろ、私は、会社の同期の女性社員の結婚式の二次会に、他の同期たちといっしょに呼ばれました。
二次会で、新郎側の中高時代の同級生(男性)のひとりが、余興として、会場にあったグランドピアノで、新郎の中高時代のエピソードを、ピアノを弾きながら、おもしろおかしく歌い始めました。
大柄の男性で、すでにお酒も入っていて、ヘラヘラ笑いながら、ピアノの椅子に腰かけて、弾き始めると、スゴイ音です。 うるさい音、ではなく、力強い音です。 ピアノの音に、性別と体格と若さは、大いに関係している、と、今ふりかえって思います。
酔っぱらってジャズピアノを弾きながら、新郎のエピソードを面白おかしく歌いあげるたびに、ワインやビールのグラスを片手にピアノの周りに集まってきた他の同窓生たちが、「ワハハハ」「ウハハハ」と笑う。
ひな壇に座っている新郎も、それを見ながら笑っている。
ハジけてイケてる、堂々たる演奏。 著名なジャズピアニストやキーボーディストを輩出した中高一貫校の卒業生ならではだなぁと、今振り返って思います。
「上手く弾こう」とか、「間違ったらどうしよう?」という、ちっこいレベルのものではない。
だいいち、酔っぱらって弾いているのだから、ピアノに対して畏れかしこまっていない。
彼は、ピアノに弾かれるような存在ではなかった。
彼にとって、ピアノは、自己表現を楽しむためのツールのひとつに過ぎなかった。
もし、
ちまたのピアノの先生や、クラシックピアノの愛好家が、その場にいたとしても、「奏法が」どうとか「運指が」こうとか、言えなかったことでしょう。
舌が固まってしまっていたことでしょう。
そんなことを思うことすら、なかったでしょう。
ただ、自分たちの手の届かない空に輝く星のような彼と友人たちを、
まぶしそうに見つめるだけだったでしょう。
彼らは、勉強も文化も達者なシティーボーイたちを最高学府に大量に送り込む、日本有数の私立男子校の出身者たちです。
それは、まさしく、エリート同士の結婚の二次会でした。
新郎は、その男子校⇒最高学府⇒日本の中枢に勤務している人。 私の会社の同期である新婦は、日本株式会社のトップ企業の重役のお嬢さんであることを、その会で知りました。 すごい美人であるわけでもなく、服装にも仕草にもお嬢様っぽいところがなく、元気で気さくなスポーツウーマン、でも頭はよく回る、有名総合四大卒の人ですが、他の人と違う何かを漂わせている、と思ったら、
そうだったのか。
私は、ひな壇の新郎新婦を、まぶしく見つめました。
よく、お釈迦さまや聖人の背後に、後光が描かれていますが、
後光って、ほんとに、あるんだね。
昔の人は、それを、なんとか絵に描こうとして、
ああいう形状に描いたんだね。
後光を放つ人の前では、一般ピープルは、無条件に降参するんだね。
戦いを挑む、そんな気すら、おこらない。
かといって、劣等感も、感じない。
後光のある人は、こちらを威圧もしないし、下にも見ないから。
彼らは、自分を大きく見せようとすることも、品よく見せようとすることもなく、
ただ、あるがままに、自然体でそこにいるだけだから。
物理的には同じ場所にいるのに、ある座標軸から見ると、一般ピープルとは全くの別世界にいて、そこで輝いているだけ。
こちらは、すぐそこにいるのに、手の届かない場所にいる、星のような彼らを、
まぶしそうに見つめるだけ。
私が目撃した「エリート」による演奏 ②
数年前、ある大所帯のピアノ会に参加した時のこと。
初参加の男子大学生が、ピアノの前に進み出ると、自己紹介を始めた。
ピアノを独学ではじめて1年足らずとのこと。
朗らかで、くったくなく自己紹介をして、持ち時間を聞くと、
「その時間の間、何曲か弾きます」
と言って、楽譜も置かずに弾き始めたのが、
古い日本の歌。
自分流にアレンジして、いろいろなジャンルの歌を次々と即興演奏していく。
「楽譜」という名の補助輪に頼ることなく、音楽の運転を心のままに楽しんでいる。
ピアノを始めて日が浅いことは、演奏を聞けば私でもわかる。
クラシック文法にも、ジャズ文法にも、まだ冒されていない。
そのせいか、
音楽が、その人をストレートに表していて、聞いていてとてもすがすがしい。
クラシックピアノの訓練を受けていない弾き方
それが、いったいどうだっていうんだ?
音楽語の文法を知っているとか、ピアノの演奏の訓練がどうとか、
そんな皮相的ものは、吹き飛んでしまうんだね、
というか、
自分の世界を、好きなように、心地よく、表現している演奏に対して、
そういう、ねじ曲がった考えで見ようとする人は、哀れだ。
怖いなぁと思ったのは、
人間性って、音に、出るんだね。
素人ピアノ会に参加すると、
いろいろな人が、いろいろな曲を弾くけど、
その人柄が、音に、あからさまに出ることがわかった。
多くの人が、おずおずとピアノの前に進みながら、
「間違えないように、間違えないように」 とか、
「あそこのトリルが今日はちゃんと弾けるだろうか」 とか、
「俺はあいつより上手いぞ」 とか、
「私はコンクールや検定で何級をとったのよ」 とか、
「私は音高出身なんだから」 とか、
いろんな悪魔に憑りつかれて(とくに、首の後ろあたりにね)、
本人はそうとは気づかずに自分で自分に鞭をピシピシ打って、
見世物小屋の玉乗りの子熊みたいな演奏&音になってしまっている*ことが多い。
(* 素人&素人ピアノのプロの音と、プロピアノのプロの音は、まったく異質の音だと、経験上感じます。 プロのピアニスト&作曲家(先生)の生徒さんたちの発表会に参加した時、素人やピアノの先生たち(生徒たち)が弾き終わってから、最後に弾いた、お弟子さんの若いプロのピアニスト&作曲家の音が、ぜんぜん違ったんだよね。 また、あるとき素人ピアノ会にどういうわけか参加したプロのピアニストさん(どうしてタダでメシのタネの演奏を軽々しく聴かせるのか意味不明ですが。いや、そのピアニストさんの演奏の価値はタダなんでしょう。教育にかかった投資のリターンゼロ!経済原則を全否定するクラシック音楽ってスゴイね!)の音も、ぜんぜん違うんだよね。 あれはどういうことなんだろうか? しかも、プロピアノのプロに限って、素人が弾きたがる「難曲の大作」を弾かないんだよね。 ていうか、前座ネタを真打が演るクオリティに上げる腕がある(もっとも、前座ネタや名人用のネタなんていう区分けは、そもそも存在しない)。 プロピアノのプロは、素人的な独り善がりのマインドセットで演奏しない。 演奏でお客様に喜んでもらってお金をもらっている芸人魂が、音に表れるんだね。 だからプロピアノのプロの音は、お気楽な素人が決して出すことができない、プロの音がするんだ。)
話をもどして、
人間性は、音に出ます。
とくに、子供のころから習っていると、先生から批判的に判断され慣れているので、
自分についても人についても批判的に判断しがちになる。そして、
いろんな悪魔(過剰な自意識)に憑りつかれて(とくに、首の後ろあたり)、
見世物小屋の玉乗りの子熊みたいに、
何が楽しいんだかわからないような演奏&音になってしまっていることが多い。
これに対して、
その学生さんは、スタスタとピアノに近づいて、
挨拶からして、立ち姿が、背筋がスッとしていて、
弾く姿勢も、猫背じゃなかったんだよね。
いい姿勢だなぁ、と、背後の席に座っていた私は、思ったんだよね。
そして、テクニックや作曲法なんて、われ関せずに、
自分の心に正直に、のびのびと、自己表現する。
べつに、イケメンでもないし、
ごく普通の服装だし、流行の髪型でもないし、
でも、くったくない笑顔と話し方と、
のびのびとピアノを弾く様子から、
その時も、やっぱり、なにやら雰囲気が漂ってきたんだよね。
後で、最高学府の大学生さんだと、誰かが言っていました。
あ~、やっぱり、そうなのか。
あれも、後光みたいなものだったのかな?
この学生さんも、ピアノに弾かれていなかった。
ピアノを、自己表現を楽しむための、単なるツールのひとつとして、弾きこなしていた。
「ピアノのガッコの先生は、ムーチをふりふりチーパッパ」
に毒されていない、天真爛漫な、のびのびした演奏。
ドリームキラーたちが矢を放っても届かない、お空の星が弾くピアノ。
物理的には同じ場所にいても、何かの座標軸では別次元にいる人の演奏。
ダンスバトルよろしき演奏バトルフィールドの住人に、ピアノ演奏で挑まれたとしても、
キョトンとしているだろう。
ただ、困ったような顔をして、笑っているだけだろう。
だって、自分が好きで演奏するピアノに、
演奏バトルで優劣をつける意味が、わからないだろうから。
お星さまには、矢を放っても、届かない。
おいおい、 エリートと言うが、
しょせん、一般ピープルとは無縁の、
生まれも育ちも正真正銘のエリートじゃないか!?
こんな例じゃ、ちっとも参考にならないよ!
はい、そうですね。
上記の2例は、一般ピープルにはとても参考になりません。
でも、
エリートとは、生まれ育ちばかりではありません。
逆に、
生まれ育ちが良くても、最高学府に通っていても、
ぜんぜんエリートじゃない人がたくさんいます。
エリートとは、心の持ちようの問題です。
だからこそ、
誰でも、心の持ちようによって、
エリートになれるのです。
そんな人たちの演奏も目撃したので、次回に書きます( ↓ ):
tokyotoad
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