ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

グランドピアノを買うべき人

以下は、20211210にアメブロに書いた記事:

 

クラシックピアノの先生方は、

 「ピアノを習うなら、アコースティックピアノ

 最低でもアコースティックアップライトピアノ。 でも、

 最終的にはアコースティックグランドピアノじゃないと!」

 

と主張する傾向がある。

それは、ごもっともな話ではある。

 

 

では、

アコースティックグランドピアノを買うにふさわしい人とは、

グランドピアノを買うべき人とは、

一体どんな人であろうか?

 

 

私が考える、

アコースティックグランドピアノを買うべき人とは、

 

 

 

アコースティックグランドピアノを買うことができる人である。 

 

 

 

加えて、

 

 

買ったアコースティックグランドピアノを置く場所を買うことができる人である

 

以上終了! である。

 

 

つまり、

 

 

アコースティックグランドピアノを持つことに関して、

死活的に重要なのは

グランドピアノを買って置ける

お金を持っていること

であり、

 

ピアノの演奏技術は全く関係がない

ということである。

 

 

これは、クルマを買うのと同じである。

 

フェラーリやポルシェや

ロールスロイスベントレー

マイバッハやEクラス以上のベンツに乗っている人が、

F1のレーサーやカースタントの人であるとは限らない。

 

むしろ、

このような超高級車に乗っているのは、

オートマしか運転できないどこぞやの資産家ジジィや

どこぞやのドラ息子や、

イカレポンチの家事テツ娘のほうが多かろう。

 

もちろん、

裸一貫から泥水を飲むような仕事をして成りあがって財を成して

晴れて今はフェラーリに得意満面に乗って

第三京浜の追い越し車線でパンピー車をあおりながら(というよりむしろ、あおったつもりじゃないんだけどちょっとアクセル踏んだら加速が異次元なもんだから前方を走行するパンピー車のほうがビビッて車線変更して道を開けてくれちゃうんだよ)、週末の箱根ターンパイクを攻めに行く

という、高級外車に乗るに真にふさわしい成功者たちもいよう。

 

逆に、

往年の石原プロ総動員の刑事ドラマ『西部警察』で

採算度外視の量の爆薬がドカンドカン爆発するなかを漆黒のアルファロメオを曲芸さながらにドリフト走行していたカースタントの皆さんが、

私生活でその漆黒のアルファロメオないしはそれと同等以上の高級輸入車を乗り回していたかどうかは、定かではない。

 

とはいえ、

確かなことは、

私生活で高級輸入車を乗り回していたかどうかは定かでなくても、

西部警察』のカースタントの皆さんは、

仕事でアルファロメオを縦横無尽に乗り回せるスキルを持っていたということである。

 

仕事で乗り回せるスキルとは、

他人さまからお金をもらえる水準のスキルということである。

つまり、これが

プロのスキルである。


これは、

ひるがえってピアノにも言えることである。

昨日はあの都市のコンサートホール、今日はこの町のライブハウス、明日はどこそこのレコーディングスタジオと、

毎日のようにアコースティックグランドピアノを演奏して仕事をしているピアニストが、

自宅にアコースティックグランドピアノを所有しているとは、限らない。

持っていなくても、あるいは、持っていたとしても、

彼らは、『西部警察』のカースタントの皆さんと同じように、

どんなグランドピアノでも、アップライトピアノでも、エレピでも、電子キーボードでも、なんでもかんでも、

ケンバン楽器であれば

種類に関係なく弾きこなす

プロの演奏家だから。

据え置き型のケンバン楽器については、

様々な場所で仕事で弾いた各楽器の各種メーカーの各種モデルのクセに関する経験知が蓄積されていて、

その豊富な経験知と演奏スキルを駆使して、弾きこなす。

カースタントの皆さんが、アルファロメオでもレクサスでもメルセデスでも大衆車でもなんでもかんでも乗りこなすのと同じだ。 仕事でいろいろな車に乗っているから、その豊富な経験知によって、種類を問わず乗りこなせるのと、同じことだ。

 

そして、

一流のプロの演奏家に限って、

「ピアノはアコースティックグランドピアノでなくては!」

なんてキャンキャン言わずに、

どんなケンバン楽器でも黙って弾いて

お金を下さる側が満足する仕事を確実にデリバーするのだ。

 

人を見てはキャンキャン泣くばかりのチワワと、

ふだんは黙っていてもここぞという時にチワワごときはひと噛みで瞬殺してしまうジャーマンシェパードとの違いが、ここに顕在化するのである。

 

 

だから、

アコースティックグランドピアノを所有しているかどうかは、

その人の演奏の腕には、一切関係が無い

一流のプロでも、ド素人でも、

買えて、置ける人は、買うし、

買えなくて、置けない人は、買わない。

 

ここで反論があるかもしれない。

「ピアノの先生は、どうなんですか?」

「ピアノの演奏が上手だから、アコースティックグランドピアノを持っているのではないのですか?」

 

ただ、

ピアノの先生たちが、アコースティックグランドピアノを持てた、というか、

厳密には、

親からアコースティックグランドピアノを買ってもらった時に

彼/彼女らはピアノが上手だったのだろうか?

まだ、音大に入れるかどうかもわからない、

上手いもヘタも無いような、実力が未知数の「どんぐりの背比べ」みたいな子どもの頃に買ってもらったのではないだろうか?

そして、

未知数の実力が判明した時、

その人たちのうち一体何人が、著名なコンクールで入賞してコンサートピアニストとして食べているだろうか?

それとも、演奏家になることができずに、トウの立つ年齢になっても親の家に同居して親のスネをかじり続けながら近所の子どもや年寄り相手にピアノならまだしも手踊りなんかを教える身分になり果てている人が、一体何人いるだろうか?

 

かたや、

音楽業界で働くようになってから、

自分の仕事の実力でお金を稼いで

海外の有名ピアノメーカーのアコースティックグランドピアノを所有するようになった

一流の演奏家がいる。

あるいは、

ステージピアノやシンセのみを自宅に持っていて、

仕事場でありとあらゆるアコースティックグランドピアノを弾きまくっている

一流の演奏家がいる。

 

クルマと同じで、

プロ/アマに関係なく、

アコースティックグランドピアノを買えて、置ける人は、買って、置くし、

そうじゃない人は、そうしない。

だから、

アコースティックグランドピアノを所有しているかどうかは、

その人の演奏スキルに全く関係が無い

 

20240301に追記: 坂本龍一さんの遺作の本を買って読んだら、「還暦のお祝いにパートナー(最期を看取った奥さん)に買ってもらったスタインウェイのベイビーグランドピアノが、子供の頃に叔父から譲り受けたピアノ以来、初めて手にした自分のピアノだった」という内容が書いてありました。 坂本龍一氏をして、還暦になって初めて自分のピアノを手に入れたということだ。 音楽産業で演奏仕事で全うに稼いでいる一流以上のケンバニストでも、自力で、つまり親に買ってもらわずに、成人後に自力でアコースティックグランドピアノを手に入れた人は少ない、という印象を、私は持っている。 手に入れた人も、中古のグランドピアノの場合が多いのではないだろうか。 音楽産業でまともに稼ぐということは、アコピのグランドを買う以前に、何台ものステージピアノやシンセやパソコンやDTMソフトや楽器音源や周辺機材や、それを運搬するクルマに投資する必要が死活的に存在する、ということではないだろうか。 子供の頃に親に買ってもらったアコースティックグランドピアノを振りかざして自慢する巷のピアノ教師や「自称プロ」の存在を、私が信用できない理由が、ここに在る。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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