ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

旧ブログのアクセス数

以下は、20211129にアメブロに書いた記事:

 

以前書いていた、はてなブログの年初からのアクセス数が、

年末を待たずに1万を超えた。

均(なら)すと、1日に30件ぐらいアクセスされていることになる。

 

いまや全く更新することもなく、

更新するとしても過去の記事に加筆するだけの、

しかも

義理でアクセスする生徒も知り合いもゼロのブログである。

見ず知らずの人たちが検索でたどり着いて読んでくださっているのだと思うが、

この「外れた粗忽者」の拙文が何かのお役に立っているのであれば、嬉しいことである。

 

私が、ピアノと音楽全般に関してブログを書き始めたのは、

子どもの頃のピアノレッスンや、大人になってからも

ピアノと音楽について、

「おかしいなぁ?」と

疑問に思っていたことを、つぶやくためである。

 

いろいろな疑問を一言で言うと:

クラシックピアノのプロ演奏家や先生たちは、

しかるべき音楽の実力が

本当に有るのだろうか?

ということである。

 

ショパンの「難曲」と言われている曲をバラバラ弾ける人が、

合唱の伴奏で、ちょっとした気の利いたアレンジを全くできない。

 

初見でスラスラ弾ける人が、

自由な即興演奏が全くできない。

 

印象派など近代の曲の楽譜を見て弾くことはできるのに、

ジャズのコードは全く聴きとれない。

 

そんな耳なのに、

ジャズやポップスやロックやアニメ音楽といった、

クラシック音楽以外の音楽を

「劣ったもの」と見下す。

ましてや、

日本の伝統音楽なんて

未開で音楽ですらない!みたいに、潜在意識で思っている。

 

日本人なのに。

 

クラシック音楽は、

自分の文化の音楽ではないのに。

 

自分の国の音楽をリスペクト出来ない人が、

その痩せたちっぽけな体格で

異文化の大男たちが作り演奏してきた音楽を

狂ったように悲愴に練習する様(さま)の、滑稽さ。

 

まさに、猿真似!

 

手の形や指練習といった、

末端の練習で手や指にスパルタのシゴキ練習を課し、

挙句の果てには、

指の根元を切る!(←昭和の時代)

自分の身体を自傷させてまで続ける、狂気に満ちた世界。

 

 (↑ 「指の根元を切る!」 意味が解らない若い人もいるかもしれないから、補足説明すると、戦後昭和の頃は、リストを弾くには小さすぎる、モミジのようなお手てのお嬢さん方が、音大に入ってピアニストになりたいがために、指の根元の「水かき」の部分を切って、指の間を広げることが、しばしば行われていたのである! ちなみにリストは12度が届いた、つまり、片手の親指と小指を使ってドとオクターブ上のソを同時に鳴らすことができる手を持っていた。)

 

 

他の楽器に対する上から目線も、気になった。

「ギターよりも、ホーンよりも、シンセよりも、

アコースティックピアノのほうが偉い!」

 

本当?

チューニングは人任せで、

楽譜を脳内で移調しながら演奏する必要も無く、

音響工学の知識がゼロでも弾ける

アコースティックピアノは、

本当に偉い楽器なのか?

 

ケンバン楽器では、基本的に

白鍵キーと黒鍵キーの音の並び方が

どのケンバン楽器でも一緒だ。

「ピアノしか弾けません!」って、

トーシロが言うのなら微笑ましいが、

冗談じゃなくマジメにスマしてのたまうプロはもはや意味不明。

そういう輩に限って、楽譜を見てしか弾けない。

アコースティックピアノ一本で勝負するなら、

せめて、

前世紀のハーモニーやリズムぐらいは駆使した

素人が腰抜かすような即興演奏でもしてみろよ。

あるいは、

ステージ上で場所を占領している

その厚かましくデカイ楽器の圧(あつ)に見合うだけの、

バンドの司令塔的な音楽監督の役目も兼任しなよ。

 

そうではない、

巷の無数の「自称プロ」たちは、

今までずっと長い間、相当ゲタを履かせてもらってきただろう。

しかし、

そのゲタが朽ちて崩れ落ちる音が、そこかしこで聞こえている。

 

最後に、

自分の国の伝統的な音楽や大衆音楽やシリアス音楽を見下す一方で

西洋クラシック音楽を礼賛してばかりで

「世界に認めてもらおう!」みたいな

さもしく物欲しげな、

軸の無いマインドセットでは、

何をどう弾いても、

ロクな演奏は出来ない。

  (↑ちなみに、「世界」って一体どこのことよ?)

 

 

tokyotoad

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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