おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

実力の3分の1で納得できるパフォーマンスを目指す

 

以下は、20220124にアメブロに書いた記事:

 

前回の記事:

原価率30%のパフォーマンスを目指す

を踏まえて、

 

この世で、何を行うにも、

何かを全力で行う際に、

実力の3分の1程度しか発揮できなくても納得のいくパフォーマンスができるような

熟達のレベルを確立&維持すると、

余裕を持ってこの世を生きていけるのではないか、

と私は直観している。

 

仕事でも何でも、

当然のことながら全力を尽くして行うのだが、

自分ではコントロールできないいろいろな不確実要素が存在するので、

全力をつくしても、理想的な状態での自分の実力の3分の1ぐらいしか

現実には発揮できない。

だから、たとえば、

プロ野球選手(野手)であれば、

試合で打率が3割以上打てるように

日頃の練習では10割打てるようにレベルアップしておけば、

レギュラーのスタメンのポジションを通年維持できる可能性が非常に高くなる。

 

というようなことを、

私も過去にやったことがあるなぁ、と思い出した。

もう何十年も前のことだが、

英語圏で某専門学校に通ったときに、

初年度のしょっぱなの課題の1,000ワード以内で書く小論文を、

3,000ワード超書いて提出したことがあった。

なぜ、課題の量の3倍以上の量を書いたかというと、

担当の教諭にナメられないようにするためだった。

その教諭が、私のことを、

「非英語圏出身だから英語をロクに書けないだろう」

と思っていると、感じたからだ。

結果は、私が狙ったとおりになった。

小論文が返却される際に、

その教諭の私を見る目が、明らかに変わっていた。

教諭による採点も良い評価で返ってきた。

以後、その教諭は、

私について英語のレベルを言うことは、なかった。

そして、

卒業直前の職場研修の研修先に、

私が希望する職場への推薦状を

ふたつ返事で書いてくれた。

世の中、そんなものだ。

私は、

違う言語・文化圏からやって来た、人種も違う外国人が、

その国で勉強したり働いたりするときには、

当然のことながら言葉や外見などのハンデを背負って生活することになる、

ということを、わかっていたので、

ネイティブの人たちの3倍やって、

ようやくネイティブの1人前ぐらいになるだろう、

と感じたので、そうしたのだ。

もっとも、当時の私の英語力は、

今の(そうでもない)レベルよりも低かったので、

それを量で補完しようとしたのも、理由のひとつだ。

見知らぬ異国では、何をするにも、

その国のマジョリティの民族の3倍努力すれば、

その国のマジョリティの民族から、なんとか1人前に扱われる。

それぐらいの塩梅(あんばい)が、

世界のどこの国に行っても順当なところだろう。

 

2倍では、足りない。

3倍やって、ようやく

他人様から見て100%に見えるようになる。

これは、

外国で生きる日本人や、日本で生きる外国人に限ったことでは、ない。

その国のマジョリティの民族の中においても、実は、そうだ。

 

「100点満点のパーフェクトでできる自信がある!」

と、自分の中で思っているスキルは、

世間の目から見れば30点ぐらいに縮んでしまう。

なぜなら、どんな仕事でも、

「自分のスキルを発揮する晴れ舞台」は、

その仕事全体の3分の1を占める程度に過ぎないからだ。

あとの3分の2は、

職場での打ち合わせや、交渉や、準備といった

上司やクライアントや関係各位の方々とのやりとりや、

疫病の流行や自然災害といった

自分ではコントロールできない事象によって

吸い取られてしまうからだ。

だから、自分のスキルが、

自分の中で300点近くをとれる自信があるレベルになると、

世間から見て、ようやく90点以上に見えるので、

そう見えるようになってはじめて、

世間様は、「その分野のプロ」とみなしてくれて、

自分の労働に対してお金を投げてくれるようになるのだ。

 

仕事でも、何でも、

理想のレベルの3倍を築き上げて維持すれば、

余裕を感じながら従事することができるはずだ。

そして、おそらくは、

家計のやりくりについても、そうだろう。

人の一生の全部、まるごと、そうだろう。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

実力の3分の1で納得できるパフォーマンスを目指す | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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