音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

大人のピアノは、レッスンを受けるべきか?独学か?_003

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002(↓)の続きです :

tokyotoad1.hatenablog.com

 

就職してからは仕事と家庭に追われて、ピアノに触れることはありませんでしたが、それでも30歳ぐらいの頃に、子どもの頃から憧れていたドビュッシーのある曲を弾きたいと思って、楽譜を買って、家の近くの大手音楽教室チェーンのレッスンの門をたたきました。

 

結果的には、その曲を教わることはありませんでした。

 

その曲の前に、まず、ドビュッシーの「子どもの領分」を買って、一番最初のなんとかかんとか博士(←名前忘れた)っていう曲を練習するように、と言われました。

 

ええ、知ってますよ、その曲。 ドビュッシーが、ツェルニーの練習曲を小ばかにして作った曲でしょ?

またツェルニーかよっ!

もうひとつ、

「小さな黒人」をやるように、だってさ。

あんな人種差別的な曲、やれるかよっ!

それに、白人が作ったマガイモノをやるくらいだったら、本家本元のジャズをやりますよ、ジャズを!

 

1か月で、ピアノ教室をやめました。

 

いくらピアノが下手で、ブランクがあっても、

ドビュッシーが好きってことは、ドビュッシー的なハーモニーが好きなんだから、

あんまり目クジラたてずにさぁ、弾けなくても、やりたい曲をやらせてくれてもいいんじゃない?

 

その後しばらく、家の電子ピアノで、あこがれだったその曲を自分で練習しました。

先生は、ギーゼキングのCDです。

鼻で笑う人もいるかもしれませんが、

自分のレベルに関係なく、いつでも、

最高のお手本を選ぶのが、幸せな成功への近道です。

レベルの低いお手本や教材でやるよりも、

レベルの高いお手本や教材を使うほうが、

人生における時間効率が上がり、

その分、時間コストが下がります。

人生には限りがあります。

だから、時間コストは低ければ低いほど、人生全体の価値が減損しません。

それに、何よりも、

「自分は最高のものを使っている」ことが、自信につながってゆくのです。

 

 

その後、ピアノを再開したのは、半世紀生きてきた頃でした。

 

ただ、ここで、私は大きな失敗をしました。

 

それまでやってきた仕事で得た成功体験の方法を、そのまま当てはめてしまいました。

 

その方法とは、

「仕事をするなかでスキルを獲得する」

という方法でした。

「学校に通ってスキルを習得する」という金銭的余裕がなかったので、

とにかく、自分には無理だと思った仕事でも気合いで引き受けて、

アップアップ状態で半べそをかきながら死にもの狂いでやることで、

お金ももらえるし、スキルも磨ける。

という方法をしてきました。

(仕事においては、その方法は正しかったと思います。 じつは、専門学校や大学に通っただけでは、できるようには、ならないんです。 「〇〇を習うためにXX学校に行こう」と考えた時点で、上手くいかないんです。 大学でも専門学校でも、トップの成績の人達は、入学する前からもともとできる人たちなのです。 どうしてもともとできるかというと、それに興味があって、夢中で時間をわすれて、そればかりやってきた、いわゆる「〇〇バカ」だからです。 世の中は、「〇〇バカ」が成功するようにできています。 とくに、音楽などの個人技芸になると、それが顕著です。 だから、「大学で〇〇を教えてもらおう」と受け身に思っている時点で、もうその業界で生き残ることは極めて難しいのです。 大学や専門学校などの高等教育機関は、「〇〇バカ」たちがそれまでバカみたいに夢中でやってきたことを披露する場であり、業界の先達(せんだつ=大学で教鞭をとるプロ演奏家といった「バカの先輩」)から「有望な人材」と目をかけられ、将来の共同作業者(おなじように有望な「〇〇バカ」の同級生たち)との人脈を作って、卒業後のキャリアの道筋をつくる場所なのです。 「〇〇バカ」は、専門の高等教育機関に行かなくても、遅かれ早かれ頭角を現します。 なぜなら、世の中が彼らの能力を放っておかないからです。 だから、音大卒ではない、一世を風靡していまや重鎮となったカリスマ的なミュージシャンが、音大の先生になっていたりするわけです。  「〇〇バカ」は、別名「〇〇の鬼」です。 その分野において、常人のレベルを超越した人たちです。 これはなにも、音楽業界に限ったことではありません。 町工場から大企業まで、どんな職種や業界でも、キャリア形成のある時点でになった人たちがトップ集団を形成しているのです。)

 

話をもどして、 

この、「仕事をするなかでスキルを獲得する」

と同じようにやれば、ピアノも上達すると考えたことが、良くなかった。

ボランティアのピアノ演奏をやらせてくれるお店に、デモ演奏と私の音楽歴(子どものころの検定級)を送ったら、とても有難いことに受け入れてもらえました。

(「とても有難いこと」と書きましたが、もちろん、お店側にも思惑があります。 よほどヒドい演奏でなければ、ボランティアの「ピアニスト」としてお店で弾いてもらえば、その「ピアニスト」さんが得意になって親戚友人知人に声をかけて彼らを店に誘引し、彼らが飲み食いしてくれれば、店の売上アップになるからです。 「ピアニスト」さんがプロのピアニストやピアノの先生であれば、親戚友人知人や「お義理」で断れない人たちに加えて、経師屋連(きょうじやれん)や狼連(おおかみれん)も店にやってくるかもしれないし、ピアノのライブや発表会のためにその店を借り切ってくれたら、売り上げ的に、なお良いわけです。)

 

演奏の条件は、「ミスタッチをしない」ことでした。

人前で弾くんだから当たり前の条件ですが、

私にとっては、これが、呪縛になってしまいました。

メロディーとベース音とコードを入れた楽譜を16曲ほどつくって、

練習では、とにかく、ミスタッチをしないように、しないように。

でも、人間だから、ミスタッチします。

それも、子どもの頃に習っただけの素人ですから、

ミスタッチするする! そして、

すっかり、ミスタッチ恐怖症になってしまいました。

本番では30分に3回はベース音やメロディで変な音を出しました。

 

ミスタッチはプロでもします。

でも、プロはミスタッチが極端に少ない。

どうしてだろう? と考えました。 

ピアノ会で、間違えると周辺の鍵盤をやみくもに叩いてようやく正しい音を見つけて弾く、私と同じ素人を、何人も見ました。

どうして、ああなるんだろう?

そうだ、鍵盤と音のリンクができていないんだ。

これに対して、プロは、

長年の膨大な練習&研鑽(と思ってやってなかったと思うけどね)の結果、

鍵盤の音、音程、キー、スケール、コードを把握していて、曲のあらすじ(コード進行)がわかっているから、そうかんたんに間違えることはない。 

と思いました。

プロは、このあたりのツメがプロ並みなのだ(だからプロなんですが)。 

もはや、

たとえ間違えたくても、間違えることができないほど、間違えないのだ!

仮に、間違ったとしても、サラリとごまかせる、

というか、「その音も有り!」にできる。

だから、プロにミスタッチは存在しない。

なかにはダメなプロもいて、楽譜と首っ引きで、間違えないように間違えないように、ガチガチになって弾く人もいる(そういう人に限って、演奏以外の、メークや髪型や衣装で魅せる傾向がある)。

ということも、その店でプロの演奏を聴くうちにわかってきました。

 

その一方で、

自分のハーモニーのダサさが気になりだしました。

子どもの頃、クラシック原理主義者の先生に習っただけですから、

コードは減3増3やセブンス止まり。 その上に積みあがる、オルタード音を駆使したジャズのハーモニーを知らない。

コード進行も、クラシック音楽カデンツが、知らないうちに骨の髄まで染み込んでいて、

ジャズやポップスのケイデンスを弾こうとしても、

条件反射的に、カデンツの和音を弾いてしまう。

もうダサさ満点です。Rick Beatoさんが言うところの「幼稚園レベルのハーモニー」です。

ピアノ会で、自作の曲や自分でアレンジした曲を演奏する人がいますが、

「この人、クラシックピアノのリストあたりまでしかやってないな」みたいなことが、悲しくわかってしまうのは、このためです。

それは、ハーモニーが、ドミソ・ドファラ・ドミソ・シレソ・ドミソの範疇から基本的に出られていなくて、ディソナンスへの許容度の狭さがハーモニーに表れてしまっている、

そして、

コード進行が、古典的な機能和声の枠から出られていない、

さらに、

伴奏のリズムが、「ドソミソドソミソ」とか「ドミソドソミ・ドミソドソミ」をカツカツバラバラ弾くという枠から出られていないのです。 

どうしてかって?

それしか、習ってこなかったから。 

 

 

自分では、子どもの頃からアニメやポップスを聴いてそれをコピーしてピアノで弾いていたけれど、

そうやって悦に入って弾いていた音楽は、

実際のポップスのハーモニーとは似ても似つかぬ、

クラシック音楽の呪いを受けた、ダサさ満点の響きのものだった!

ということを、痛感しました。

 

だから、ポップスを弾くためには、

20世紀以降のハーモニーができなければ話にならない!

もうボランティアピアノをやっている場合ではない!

と思って、

いろいろ試行錯誤しはじめました。

 

コード集や本を買って練習したり、動画を見て鍵盤を押さえたり、スケールやモードをやったり、ジャズのトランスクリプション譜を弾いたり、いっぱい音楽を聴いたり、ライブに足を運んだり、いろいろしています。

今は、ネットでいろいろな動画や音楽を聴けるので、とても便利です。

 

そして、現在、

ピアノを習っていた子どもの頃のお粗末なハーモニーに比べて、

はるかに複雑なハーモニーを扱えるようになりました。

でも、音楽の世界は無限ですから、

これからも楽しみながらやっていこうと思います。

 

一方で、「音がうるさい」と店のお客さんから言われたので、

良い音を出したいなぁ、と思って、

子どもの頃の先生に再び習ったのですが、

子どもの頃にヘタだった子は、大人になってもヘタな人...。

ウソでもいいから、褒めてほしかったよ...。

そしたら、ちょっぴりでも自信につながったのになぁ...。

でも、それは、私の独りよがり!

人というものは、昔も今も、変わらないんだよ。

むかし褒めてくれなかった人に、今度は褒めてもらって、リカバーしようと思う、その魂胆が卑屈!

もう子どもじゃない。

大人なんだからさ、人をアテにしちゃだめ!

自分で自分を進歩させよう。

( ↑ と書きましたが、前回の記事に書いたように、子どもの頃の先生は、知ってか知らずか、レッスン代の時給ベースでご自分の10倍も価値が高いプロのピアニスト先生を私に紹介してくださり、そのピアニスト先生が、私が心の底から欲しかった「あなたはできる!」という自信を、事実(=発表会の演奏順番)という最も強力な形で私にくれました。)

 

レッスンに通うのはやめてしまいました(子どもの頃の先生のところへ行くと、いつも、「またレッスンを受けたくなったら連絡して。」と言われていたので、行かなくなりました。 プロのピアニスト先生は、私に自信をくれたとても良い先生でしたが、レッスン代や発表会の参加費用が私にとっては高額なことに加えて、コンサートのチケットやCDの購入などの関連出費もあり、残念ながら続きませんでした。 社会人がプロの演奏家に習うことは、実質的にその演奏家のファン(パトロン)になるという、たいへんに贅沢な趣味なのだ、と知りました。 プロのピアニストに習うことは大人の社会人の究極の道楽、つまり「旦那(だんな)業」なんだ、と思います。)、

 

レッスンをやめるのと前後して、家で、

PianoCareerAcademy のIlinca Vartic先生の演奏動画を見はじめました。

子どもの頃の先生のレッスンを通して、わずかにあった自信の残高もマイナスに転じてしまったように感じていたので、

藁(わら)をもすがる気持ちで、たまたま見つけたVartic先生の演奏動画をマネしはじめた。

姿勢が美しく手の動きが優雅なVartic先生は、本物だ! 

と直観したので、

初心者向けのいちばん最初の動画から見始めて、

手の動きをマネしつづけた。

 

私がVartic先生は本物だ!と思った理由は:

 ① 本物だから これがほぼすべてです。 ピアノはヨーロッパ生まれの楽器ですから、ヨーロッパに生まれ育ち、そこでクラシックピアノを習ってプロの演奏家になり、それからもずっとそこに住んでいるVartic先生は、本場の人。本物です。 逆を言えば、ロスで生まれ育って子どもの頃からアメリカ人の先生から三味線を習ってはいたけれど、ファストフードのハンバーガーばかり食べていて、たまに「なんちゃって寿司」を食べ、Zen(禅)と忍者に傾倒しているような、「日本の音大に留学して3年間三味線を習った」と片言の日本語で主張するアメリカ人の三味線奏者から、三味線を習いたいと思いますか? アメリカ人にとってのZenはわからないけど少なくともninjaは、結婚式のお色直し入場のドレスのような、日本人の女性ピアニストの衣装と同質の匂いがプンプンします。一体どこで何をどうまちがって、日本固有の西洋風の女性のドレスが出来上がったんでしょうかね?民族的な体形の大きな違いは大いにあると思いますが。)    

 ②フィジカルが整っていて、強靭で、柔軟だから: Vartic先生は、演奏動作を真似るお手本として大変に優れているということです。 姿勢が良くて首が長いのは、演奏時に動力の伝達効率が良いことを示している。 話し声が穏やかなのは、姿勢や動きが整っていて、身体が柔軟でリラックスしていることを示している。 また、体操の動画を見ると、身体が柔軟な上に筋肉もあって、フィジカルが強靭と見受けられる。 Vartic先生は細身なので強靭そうに見えないが、上半身が逆三角形をしていて、胸板と背中の上部がとても分厚い。 ダンサーに近い体形なのだ。 強靭なフィジカルを維持しているから、女性でありながらピアノに力負けしないんだと思う。 力負けしないからこそ、楽器を手なづけることができ、弾き方が優雅で美しく、音も美しいのだ。 「美」は羊が大きいと書く。 美しさは、瞬発力や馬力といったパワーと、そして、柔らかさだ。 これに対して、声や身体が固い演奏家や先生は、身体が緊張していつも力んでいる状態にあるので、当然ながら、表現も固い。 そういう固い人をお手本に見ていると、こちらまで固まっていってしまう。

 ③ 「弘法、筆を選ばず」だから Vartic先生は、初期の動画で、電子キーボードを使ってピアノの弾き方を優雅にデモンストレーションしています。 自宅で撮影した動画(膨大な数の有料チュートリアル動画を含む)では、アップライトピアノを使っています。 Vartic先生が個人で所有しているのはアップライトピアノのようです。  一流の人は楽器を選ばないということです。(このように書くと、これを読んだちまたの先生方がにわかにアップライトピアノやキーボードを使って動画を上げ始めるかもしれませんが、そのようなスタンスで届けられるものの質は、すぐに見破られてしまうと思います。)

 ④ 動画が地味で、実(じつ)があるから チュートリアル動画を有料サブスクライブすると、ビギナーからラフマニノフまで、ひとつひとつが結構な長さの、しかも数え切れない数の地味で淡々としたチュートリアル動画を視聴できる(たくさんあり過ぎていったい幾つあるのか数える気すら起きなかったよ)。 地味で淡々としている点に、本物感がある。「見た目華やかで気軽にできそうな気持にさせるライフハック動画」とは、異次元的に質が違うのだ。 Vartic先生はとても美人だが、チュートリアル動画では、セーターなどの、普段着に毛が生えたぐらいの服装で、しかも、動画の最初と最後以外は、演奏する胴体と腕~手しか画面に映っていなくて、顔が滅多に写らない(良くてアップライトピアノの塗装面に眼鏡をかけた顔がうすぼんやりと写り込んでいるだけ)。これに対して、動画は鍵盤を上から見た画像+横から撮影した演奏する胴体の画像+足元のペダリングがフィーチャーされていて、本当にピアノが上手くなりたい人たちに向けた、ガチで硬派な動画なのだ。 動画の間じゅう、平易な言葉で弾き方を延々と説明していて、それを聞くだけでも大変な価値があるが、何よりも、Vartic先生の胴体と肩~腕~手先の動きが、最もためになる最強のレッスンコンテンツなのだ。 結論を言えば、ちまたにいがちな「グランドピアノの威を借りなければ説得力を出せない先生」や「きれいな衣装を着てメークもヘアスタイルもバッチリキメで、視聴者が喜びそうな皮相的なライフハック動画(事実上のエンタメコンテンツ)をあげてばかりのYouTuber(=エンターテイナー)」ではない、硬派な先生である、と判断しました。 

 ⑤ 英語の動画だから Vartic先生のチュートリアル動画は英語なので、私にとっては、脳内での無駄な音楽用語の変換の手間がかかりません。 英語では、ジャズでもポップスでもクラシックでもメタルでもなんでもかんでも、音楽用語は同じだからです。 F major は F major。C sharp は C sharp。cadence は cadence。 これが日本語になると、クラシックとそれ以外の音楽ジャンルとの間に、峻厳な言語障壁が存在し、愚か者の私はそれに戸惑うと同時に、大きな不条理を感じます。 西洋音楽の用語で使われる、明治時代の日本の偉い人たちが当てた漢字の訳語に、違和感を感じます。 表音文字と数字のデジタル文化圏の音楽である西洋音楽の用語を、日本語における表意文字(漢字)に翻訳すると、文化的なすり替えが起こるからです。 異なる文化圏のものを翻訳する場合、「文化的なすり替え」という名のローカライゼーションは避けられないのです(複数の言語を使って仕事をする人は、そのことを知っています)。 土足でベッドの上に平気で寝っ転がる人たちの文化と、わらじを脱いで足を水で洗い清めてからじゃなければ屋内に上がらない人たちの文化が、お互いに異質なもの同士なのは、当然のことです。 だから、日本人にとって「マダム・バタフライ」が見るに堪えない代物なわけです。 それと同様に、日本における西洋クラシック音楽は、本家とは異なる、「霜降りステーキおろしポン酢ソースがけ」な気がするのです。 美味しいでしょうよ、しかしながら、本家とは全く異質の、ジャパナイズされたものである気がするのです。 ええ、日本人が外国の文化を取り入れる際には、ジャパナイゼーションは避けられません。 だったら、本家から直(ちょく)に習って自分の中でジャパナイズするほうが、誰かがジャパナイズしたものを本家と信じ込んで崇(あが)め奉(たてまつ)るよりも、ぜんぜんマシです。 それから、学者さんたちが作った漢字の音楽用語は、往々にして、大変学術的な見た目(漢字の羅列)と響き(漢字の音読み)になっていて、一般ピープルにはピンとこないものが多い。 音楽理論に詳しくない人が「コンオン」とか「ツーソーテーオン」とか聞いて、すぐにピンときます? ピンとこないんだったら、「ルート」や「フィギュアドベイス」だって、同程度のわかりやすさです。 それに、英語の日本語読みのほうが、英語の音楽動画を見るときにすぐにピンとくるので、大変に便利なわけです。 もうひとつ、西洋語では付いていない「法」が付くことが気になる。「対位法」の英語には「法」なんてついてません。「~法」ってくっつけて、無駄にインテリで学術的な感じにしているような気がするのです。「コード奏法」ってのも、なにもわざわざ「奏法」と呼ぶほどの大それた内容でもないでしょう? バンドサークルやジャズ研の人たちがごくフツーにやってることでしょ? 中学生のときにクラスの仲間たちでフォークギターを弾きながら教え合ったり音楽雑誌を読んで見よう見まねで弾いたりしているうちに、どこかの偉い誰それに習わなくても、みんなできちゃったよ。 不必要にいかめしく、もっともらしい印象を与える専門用語。 英語では、とっても簡単な言葉だったりするのに...。 与太郎の私には、そのあたりに、intimidation(脅し) と、閉鎖的な集団内でのエソテリックな知識の独占による既得的地位の保全と維持、という匂いがしてしまうのです。  そうそう、「和声」にも、英語には「学」にあたる意味はついていませんよ。 「語」もそうですが、英語を「語」と認識した途端に、英語が流暢に読み書き話せるようになることは、まずないでしょう。 それに、「なんとか教授法」っていのもねぇ。 教授法うんぬんよりもねぇ...、ゴタクを並べるのはいいから、ブツを見せろよ、ブツをっ!  最高級の本物のお手本の動作や音を視聴覚で浴びるように目の当たりにすることほど、強力なコンテンツはない。 言葉は、ウソが入り込むスキだらけだからです。 「教える」ことにこだわるのであれば、教授法のコンテンツはただひとつです:自分の心を生徒の気持ちで満たして、生徒の気持ちに自分を同化させて、生徒の心の中に自然に自信が沸いてくるように、無言のメッセージで生徒を励まし続けることです。 無言のメッセージとは、念力じゃないよ。「あなたは、できる!」「自信を持って!」なんていう薄っぺらで白々しい言葉の連呼ではない、言葉を使わない真の強力なメッセージは、この世にあふれています(最高級の本物の演奏が、その最たるものです)。「目にうつるすべてのものはメッセージ」というユーミンの歌詞を、内田樹氏が著書のなかで絶賛していましたが、まったくもってその通りです。 そういう心がない教授法は、生徒のため(=生徒が利を得るため)ではなくて、先生のための(=先生が利を得るための)教授法です。

 

話をもどしまして、

こうして、本物の、最高の先生だ!と私が直観したIlinca Vartic先生のオンラインコースを有料サブスクして、チュートリアル動画の先生の演奏動作をマネしはじめました。

数か月したら、ピアノ会で、「腕の動きがきれい」って言われた。

これは大きかった!

お世辞でも、褒めてもらえると、小さな自信につながっていきます(ミエすいたお世辞は逆効果だけどね)。

また、ある発表会のリハーサルでは、

同じ素人の参加者から「音がきれい」って言われた。

そんなはずないんだけど、でも、ありがとう。 ウソでも嬉しい。

遠慮なく、額面どおり受け取らせていただきます!

素人同士で褒めあうことは、お互いにウィンウィン(win-win)で、とてもよい習慣だと思います。 

お互いに褒めあっているうちに、みんなで木にのぼっているはずだよ!

 

木に登れるブタと、木に登れないサルの、どっちがいいですか? 

私は、木に登れるブタのほうが絶対にいい。 

「あなたは木登りが下手なのよ」という魔女の呪いを受け続けて、

木に登れなくなってしまったサルよりもね。

 

 

「最高のお手本の動きをただひたすらマネる」方法は、

私が思ったとおりの結果が出ました:

「手の形を丸く」みたいな言語指令を脳の前頭葉で解析して動作を行うよりも、

最高のお手本の動き(ビジュアル情報)を見ながら条件反射的にマネるほうが効果的なんです。

なぜなら、

脳の前頭葉とは:

仏教でいうところの、ロクなことを考えない自我(エゴ)、

旧約聖書の創世記でイブがスッポンポンでいることが恥ずかしくなった、その気持ち(エゴ)が棲んでいる場所だからです。

これに対して、

ビジュアルを見て無心にマネる行為は、前頭葉の「ロクでもないエゴ」を通さずに、視覚情報を直(ちょく)に爬虫類脳に送るという、ファストトラック方式であり、

仏教でいうところの、念仏なのです。

念仏を、無心で、何回も何回も唱える。

これが、技芸の習得の一丁目一番地なのです。

私は、最高のお手本と信じたVartic先生の動作を無心でマネていた。

まさに、

最高の経典の念仏を無心で唱えつづけていたわけです。

ここでも、

「最高のお手本を選ぶのが、幸せな成功への近道である」

という、私のモットーが、証明されたのです。

 

並行して、ハノンをやっていました。

子どもの頃習った先生はハノン推奨派じゃなかったけど、

ある素人さんのサイトで、

「ハノンを1年間つづけたら飛躍的にテクが上がってピアノの先生に驚かれた」

と書いてあったので(20代前半の若い人だったと思いますが)、

中高年の自分がやったらどうなるか試そうと思って、やり始めました。

 

私は、ハノンのほうが、ツェルニーよりも、好きです。

というのは、ハノンは、どうみても

「私は、曲じゃありません。単なる基礎練ですっ!」

て、言っているかのようでしょ? 

潔いじゃありませんか。すがすがしいですよ。

これに対して、ツェルニーは、

「私は、練習曲。ピアノ曲(作品)でございますよ」

っていう体(てい)じゃないですか?

でも実際は、基礎練なんだよ。

だって、発表会で弾かないでしょ?

それに、音楽性が低い、とは言わないまでも、

単調でしょ?

単調なものは、音としてはペケなんですよ。

しくないから。 

音楽は、象牙の塔の中で精査研究される学問じゃない。

音楽とは、人間の愉悦の快楽的な表現。 

固く閉じられた天岩戸の前でアメノウズメが躍った、猥雑で躍動的な生命の歓喜の踊りが象徴するもの。 アマテラス(太陽神)を誘い出し、この世を生命の光でいっぱいに満たすための、命を燃やしたコンテンツ。

だから、楽しくないものは、音楽じゃない。

だから、ツェルニー嫌いが多いんですよ。

ハノンみたいな、すがすがしい潔さが、無いから。

みんな、心のどこかで、

「これは、曲の体裁をしているけど、音楽じゃない!

て思っているから。

 

ハノンを半年ほどやったころ、

あるピアノ会で、演奏し終わった後、

参加者の一人に、

「ハノンをやっているんですか?」と聞かれた。

また、別のピアノ会でも、やっぱり、演奏し終わった後に、

「ハノンをやっているんですか?」て聞かれた。

ハノンをやっているとね、わかるみたいですよ。

聞いてきたのは、二人とも、

「クラシックピアノ演奏の腕に覚え有り」ていう感じの、

難曲をバラバラ弾いて、

自分の演奏をまんざらでもないと思っているような人たちで、

それ以後、その人たちに話しかけてこられたり、

プライベートなピアノ会に声をかけられたりしたので、

ハノンには何かの呪力があるんじゃないか、と、実体験から思います。

 

今はもう、ハノンはやっていません。

やはり、ハノンは、音楽的ではない

機械的な演奏技術の向上のためには良いのかもしれませんが、

私にとっては、ツェルニーと同じように、無機質な上に、音楽的に粗いので、

音楽脳に悪いような気がする。

ハノンは、音的(おとてき)に、私がやりたい音楽には不十分だからです。

でも、基礎練は続けています。

ダルビッシュ投手が、キャッチボールもせずにいきなり全力投球することがないように、

どんな分野でも、基礎練をしますからね。

それに、自分の体験から効果があると実感したので、基礎練を続けています。

ハノンをやめた後は、

リストの弟子で「自分は基礎練なんぞはやらなくても弾けるのだ!」って生前豪語していたピアニストの死後に出てきた、膨大な自作の基礎錬の楽譜(なんだ、隠れてやってたんじゃないの!)を、動画でみつけて、それをやってみたり、

他の動画でジャズピアニストさんが勧めていた同じような基礎錬(これも、リストの他のお弟子さんが自分用に作った基礎練)を自分流にアレンジしてやったりしていました。

今は、自分の方向性に合ったレジメンを、私の基礎練として続けています。

これは、非音楽的な基礎練でも、曲の革をかぶった基礎練でもなくて、

ガチでリアルな曲です(いつかブログで書こうと思っています)。

これを、速弾きしないで、ゆっくりゆっくり、とくに、左手の動きを感じながら、なるべく両手の左右差が少なくなるように、確認するようにやっています。

チック・コリアの言葉に:

If you want to play fast, practice slow ... a lot!

があります(たぶんKenny Werner著'Effortless Mastery'で見たと思う)。

チック・コリアが言うんですから、本物です。

真(まこと)があると思います。

(と書いたけど、「ゆっくり練習する」って、チック・コリアは、一体どういうことを意味してそう言ったんだろう? 言葉の意味って、それを聞く人によって、ぜんぜん違ってくるよね...。) 

 

でも、私はもう、速く弾きたいとはあまり思わなくなりました。

演奏の身体運動的なことに関しては、もうこれくらいで、じゅうぶんです。

もう若くありませんし、筋力も瞬発力も落ちたし、

健康のために、身体の捻じれと歪みをとる運動をしている、

その全体的な効果のオマケとして、ピアノを弾いたときに左手がもう少し動くようになれば、

それでじゅうぶんです。

老眼で楽譜も読みづらくなったし、記憶力も落ちてきたし、

以前、ピアノ会で、還暦を過ぎた人たちが言われていたことが、

身にしみてわかってきました。

歳をとれば、若い人のようには、身体も頭も、無理はききません。

でも、知識と経験は増え続けます。

音楽の知識と経験は、今が自己最高レベルです。

昔はぜんぜんわからなかったコードを耳コピできるようになったし、

ますます複雑なハーモニーを、弾けるようになっています。

そして、この歳で、

子どもの頃に好きだった曲を弾いたり、

今も音楽を聴いている時に、

「この曲すてきだな~!どういう音になっているんだろう?」

と思ったら、コピーして、鍵盤で弾いてみて、

「すごいな~!いい曲だな~!」

って思ったり、

自分でアレンジしたり、小さな曲をつくったり、

好きな作曲家の楽譜を、ポロンポロン弾いてみたり、

ライブやコンサートに足を運んで楽しむ時間がある。

とても幸せなことです。

こんなことができるようになるとは、20代30代40代と怒涛のように働いていたころには、夢にも思わなかったもんねぇ。

でも、人生、 一寸先は闇。

明日何が起こるかわからない。

こんなことがいつまでできるかわからないので、

まずは、自分の生命維持に必要な基盤を確保できているうえで、

細々と楽しんでいきます。

 

最後に、

私が「こんな先生に習いたい!」と思った人のことを書こうと思いますが、それは次回にします。

 

つづき:

tokyotoad1.hatenablog.com

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