ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

プロに教えてもらう際の覚悟

 

以下は、20211012にアメブロに書いた記事:

 

ピアノや音楽に限らず、

どのような文化芸術の習い事であっても、

その道でプロとして実際に仕事をしている人から習うのがベストだと、私は思っている。

 

そうじゃない人は、

「素人相手のお稽古ビジネス」における

「素人相手に教えるプロ」である可能性が高いからだ。

 

言い換えれば、

その人の演奏に、炊事やオムツの匂いがするか、しないか、

である。

「素人相手に教えるプロ」は、その演奏や佇(たたず)まいに、これらの匂いがする。

物理的な匂いというよりも、文化的な匂いのことである。

そして、これらの匂いを隠すために

「先生然とした雰囲気」や「偉そうな雰囲気」を、

自分の周りにオーデコロンのように吹きかけている。

要するに、

「自分は先生であり、生徒より偉い」

という匂いを発散させていて、

その体(てい)で、ものを語る。

だから、何かにつけて、

「○○を知っていますか?」とか「○○は大切ですよ」

と、

「○○を知らない生徒に教えてあげなければ!」

という使命感なのか何なのかわからないものに突き動かされているような、

上から目線の言動をする。

自分を「○○先生はね、」と、何の迷いも無く自分に「先生」という敬称を付けて自分を呼んでしまうところに、

すでに、「エセ先生」の匂いがする。

 

これとは対照的に、

音楽業界内で実績がある、本物のプロに限って、

謙虚で物腰が柔らかいものである。

本来は「大先生」と呼ばれるにふさわしい人たちに限って、

ぜんぜん先生っぽくないものである。

現実の世界で雇われ/請負い仕事をしているから、そうなのである。 つまり

「大先生」と呼ばれるにふさわしい人に限って、お客様の目線をシビアに意識しており、従って、

人当たりの良い物言いや立ち居振る舞いをするのである。

 

素人に対して上から目線で教えることしか能が無い「エセ先生」たちは、

「(権威ある)○○大先生のレッスンに行ってきた」とか「今、○○を勉強している」と、

自分の楽屋内を平気で明かしてしまうという傾向もある。

呆れるほど開けっ広げの、素人意識丸出しの行為であるのに、

笑えるくらい、本人たちはそのことに気が付いていない。

現実の世界を知らないからこその、微笑ましい行為である。

自分のPRのつもりで言うんだろうが、

「私はいまだに生徒です」

と言っていることに、気づいていないようだ。

すでに中年や中高年になってもいまだに勉強しなければならない人に、教わりたいと思う人は、いない。

 

そもそも、

本当のプロは、「勉強」レベルの内容は、若い時分にとっくに終わらせてしまっているのだ。

本当のプロは、高度な専門分野で仕事をしながら、自分の仕事の質をより一層上げるために更なる研究・探求を日々黙々と一生かけて続けている人である。 

「エセ先生」たちが寄りつきもしないような、大作曲家が残した分厚い音楽理論書を、一人黙々と読んで研究したり、

演奏動作の更なる探求のために、人知れず、身体操作の大先生のプライベートレッスンを受けているかもしれないが、

そのことを、あんまり明け透けに公言することはないのだ。

「勉強しています!」「○○大先生の研修を受講しました!」みたいなことを、さも撒き餌(まきえ)のごとく公表することは、しないのである。

それらの撒き餌を読んだ人は、いまだに人に教えるために「勉強しています!」とわざわざ吹聴する人には教わりたいとは思わないし、 そもそも

「そんならその○○大先生に直に習ったほうがいいや。だって、この先生はその○○大先生じゃないんだから」

と思うだけである。

 

そして、そもそも、

本当のプロは、

自分の仕事のネタ元は、決して明かさないものである。

明かしてしまうと、自分のプロとしての価値が大きく損なわれるから、

絶対に明かさないのである。

 

明かしちゃった時点で、もう既にプロの意識が無いのである。 

つまりは、素人芸なのである。

お金を払う前に、スカートをおおっぴらにまくって中のお楽しみを見せつけられては、

お金を払う風情も何も無いのである。

 

 

ところで、

ネタ元や自分の弱点を平気で明かすプロもいる。 ただ、その人たちを見ると、

ネタ元や弱点を明かしても平然としていられるだけの輝かしく不動の実績を積んだ、

頂点のそのまた頂点にいる人たちである。

だから、ネタ元や弱点を明かしても、もはや彼らのバリューはちっとも損なわれることがないばかりか、

「こんなことも打ち明けてくれるなんて、さすが一流の人だ!」

と称賛されて、ますますリスペクトされてしまうのである。

 

 

以下の記事に続く 右下矢印右下矢印右下矢印

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

ameblo.jp

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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