ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノにおける「音楽は言語である」の罠

 

以下は、20211105にアメブロに書いた記事:

 

2~3年ほど前に、

かつてこのブログや、旧はてなブログ

音楽の習得は外国語の習得と大変良く似ている

と書き始めたら、

「音楽の習得は外国語の習得といっしょなんですよ!」 と唄う、

「どうだ、(無知で劣った生徒のお前たちは)知らなかっただろう? 先生である私はこんなことも知っているんだぞ偉いだろう!」

と言わんばかりの態度がプンプン匂う巷のピアノ教師たちのブログ記事が沸いたことがあった。

 

へ~、

と思って2、3記事眺めてみたら、

あ~あ、この人たちは、

誰かのブログで読みかじった文句に飛びついて、

外国語の習得の大元を全然知らずに、

脳の上辺だけで意気揚々と書いているな~、

と思ったものだ。

 

ジャズでよくいわれる、「音楽は言語である」というアナロジーや、

「言語を学ぶように音楽を学ぶ」というアプローチ方法は、

クラシック音楽では、大概の場合当てはまらないばかりか、

かえって落とし穴になりかねない。

 

というのは、

クラシック音楽では、「音楽は言語である」の部分は、

演奏する人は担当していないからである。

「音楽は言語」を担当するのは、作曲家である。

 

リストやラフマニノフをバラバラと弾くクラシックピアノ愛好家に、 いや、

クラシックピアニストや、いわんやクラシックピアノ教師に、

音楽理論の話をもちかけると、

彼らはほとんど理論や文法を知らずに弾いている

ということがわかる。

 

クラシック音楽において、

音楽を言語と認識する必要があるのは、

作曲家だけで十分なのである。

演奏者の役割は、

作曲家が創作した作品を、

寸分たがわずに完璧に再現演奏することだけなので、

音楽語を習得する必要なんて無いのである、

いやむしろ、

音楽語の習得にかまけていると、

速いパッセージやトリルやペダリングの練習時間を喰われることになり、

本末転倒になってしまう。

これが、罠である。

 

画家じゃなくても、誰でも名画の塗り絵をして、

完璧な構図の絵を作れるのと、

同じことだ。

色のチョイスや塗り方がヒドくても、

構図だけは完璧に描ける、いや、

構図を描く必要は、全く無い。

だって、 絵画の巨匠による

名画の構図があらかじめ紙に黒い線で描かれてあるからだ。

 

塗り絵を楽しむ人に、

遠近法やらなにやかやと、

作画法の理論を口やかましく講釈しても、

塗り絵が楽しくなくなるばかりか、

考えなくてもいいことまで考えなければならなくなって、

塗り絵をすること自体のパフォーマンスにちっとも良い影響を与えない。

 

これに対して、

即興演奏という、瞬時の作曲能力自体を問われる

ジャズの場合は、

「音楽は言語である」が完璧に当てはまるばかりか、

言語のように音楽語を話せることが必須要素である。

 

「そんなことはない! クラシックピアノもアナリーゼをしますよ!」

という向きもあるかもしれないが、

クラシック音楽のアナリーゼなるものは、

To be, or not to be, that is the question. を

「これは iambic pentameter である」

と分析するのと何ら変わらない。

へ~、そうなんですか~。 と、

役者が知っていて別に損はないけれども、

演技の出来栄えのためには、

たいして得になるものでも、ない。

それよりも、

ちゃんと、しかるべきリズムでしかるべく発音できるか?

に尽きるわけである。 

To be, or .... を含めて創作活動の部分は、

シェイクスピアがすべてやってくれているから、

役者は創作する必要も、自由も、全く無いのである。

 

 

Tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

クラシックピアノにおける「音楽は言語である」の罠 | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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