ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

クラシックピアノは姿勢が99%か?

 

以下は、20210829にアメブロに書いた記事

 

と書いたが、実際には、

クラシックピアノは体格の大きさ(と指の長さ)が99%

だと思う。

フィジカルに恵まれていれば、演奏姿勢なんてあまり考えなくても、ある程度は弾けてしまうと思う。

大柄のプロのピアニストたちの動画を見ると、そう思う。

私はフィジカルに恵まれていないので、フィジカルに恵まれている人の体感がわからないが、そのように想像する。

 

基本的に、バスケやバレーボールと同じだね。

よほど例外的なニッチプレーヤーじゃないかぎり、

主力の選手たちは、背が高くないと、そもそもゲームにならない、というか、スポーツにならない。

 

小柄で痩せていて筋肉もない華奢な人がクラシックピアノをまともに弾きたいと願う場合、

クラシックピアノを運動的に上手に弾ける/弾けないを左右するのは、99%、座った時の姿勢だ、という思いを新たにした。

もちろん、小柄であればそれだけ筋力をつけなければいけないだろうが、筋肉量があっても姿勢がわるければ、力を効率的に伝達できないから、大柄で体格に恵まれた人とは勝負にならない。

 

私はもうクラシックピアノを弾かない。 もともと子どもの頃からあまり興味が無かったうえに、クラシックピアノのレッスンを通して、興味無し⇒嫌悪 に変わってしまったからだ。  

であっても、オープンポジションのコードを左手で押さえられないため音楽のスケールがどうしても小さくなってしまうので、せめて左手をもっと動かせるようにして音楽のスケールをちょっとでも大きくしたい一心で、身体ほぐしを4年続けてきたら、姿勢が少しずつ良くなってくるのに合わせて左手の動きが良くなった。

 (もっとも、ピアノ以前の問題として、健康的な老後を送れるように、半世紀の間にねじれまがってしまった姿勢を改善しようと思って続けてきた。)

 

そしてとうとう、今日、弾いていたら、胴体の動かし方がわかった!いや、まだわかっていないんだろうが、以前にくらべたら隔世の感があるほど動かし方がわかるようになってきた。

 

それで、小柄で華奢な人がクラシックピアノ演奏を追求するのは大変だなぁと、改めて思ったのである。 これはねぇ、大変だよ...。 とくに文化部系の人たちにとってはね。

最初からできる人は、身体が柔らかいうえに、運動神経もバツグンで、姿勢と声と身のこなしが良いはずだ。 そういう人であれば、ピアノ演奏なんて、なんてことなくできるだろう(←魔女から「ピアノの演奏は難しいのよ!」なんて脅されて、全くもって無意味で有害な呪いをかけられない限りはね)。 

一方、ふだん運動をせずに身体が固まっている人は、だいたい姿勢も声も身のこなしも悪いだろうから、そのままの状態でどんなに練習しても、いつまでたってもできないままだろう。 スポーツと同じで、残酷だ。

 

これが、即興演奏がメインのアクティビティであるジャズになると、全く別の話になる。 

ジャズピアノの場合は、音楽語を日本語のごとく流暢に話せるかどうかが99%を決めると、私は思っている。 

 

だから、ジャズピアノの場合は、どんなに体格が良くても、指が長くても、姿勢が良くても、運動神経が良くても、脳の中の西洋音楽語の進化形のジャズ語のボキャブラリーが乏しいままでは、いくらジャズピアノ集の楽譜を暗譜して完璧に弾けても、いつまでたっても弾けないままだ。  

これはこれで、とても残酷だ。 総合的な言語能力と脳の情報統合力が問われるからだ。

 

ただし、ジャズピアノの場合でも、姿勢を良くすることは一定の意味があると、私は思う。

姿勢が良いと、脳への血液の流れが良くなるので、脳の働きが向上して、即興演奏のパフォーマンスが上がるのではないか、と思うからである。

 

もちろん、西洋音楽語の進化形のジャズ語のボキャブラリーがあっての話である。 ボキャブラリーの構築は途方もない道だ...。 この歳でドイツ語をはじめから習うようなもんだからね。 でも、この世に生まれてきたからには、片言でも音楽語を話せるようになりたい、と思って、まずは標準的なジャズ語を少しでも話せるようになろうと、心に決めている(なぜなら、ジャズ語は21世紀における音楽語の古典であり要諦だからだ)。 

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

クラシックピアノは姿勢が99%か? | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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