以下は、20211104にアメブロに書いた記事:
先日書いた記事:
の続きというわけではないが、
50代でピアノを再開した個人的な経験から、
歳をとってからピアノを始めたり再開したりする際に、
留意しておくと良いと思う点がある:
① 練習してもどんどん下手になる可能性が有る。
脳と身体の老化は、情け容赦が無い。
普段の生活で、物覚えが悪くなったり、物忘れが多くなったり、細かい文字が見えづらくなったり、何にもないのに手が震えたり、足がもたついたりし始めたら、
当然のことながら、それらは、
そのまんまピアノのパフォーマンスに反映される!
クラシックピアノでは、
覚えられない・すぐ忘れる・よく見えない・手足がおぼつかないのに、
ピアノだけが素晴らしく演奏できるはずがない。
ジャズピアノでは、
覚えられない・すぐ忘れる・「え~っと」「ほら、あれよ、あれ」「あれって一体何だっけ?」では、
アドリブ演奏も「え~っと」「ほら、あれよ、あれ」「あれって一体何だっけ?」になるに決まっている。
② 絶対音感を鍛える練習は、無駄ぼねに終わるかもしれない。
絶対音感が有る人でも、中高年になるとズレはじめて、やがては絶対音感を喪失する、という説がある。 私の場合は、この説が当てはまった。
つまり、絶対音感を特訓するような練習やドリルを、どんなに狂ったようにやったとしても、絶対音感を獲得/回復する望みが無い可能性がある。
③ ①&②を踏まえて、以下に留意すると良いかもしれない:
老化を受け入れて、自分に優しくなる。 ハードルを上げ過ぎない。
やっても無駄なものには無駄にお金と時間を投じない。
レッスンの先生の指導内容を客観的に精査する(= 無理なことへのダメ出しは、自分のお金の無駄づかい&心の平安を無駄に奪われる)。
自分の若いころと比較しない。若い人と比較しない(= 若い頃/人のほうが格段に物覚えが良く曲芸ができるのは当然だが、若い頃/人には人生経験という財産が無い)。
レッスンにお金と時間を投じる意義を精査する(= 何を求めてレッスンにお金を払うのか? レッスンに通う理由は、人それぞれだろう。 レッスンに行って気持ちよくなれるなら、レッスンにお金を払う意義があるだろう。 お客様を気持ちよくさせるのがサービス業だからね)
勧誘や煽(あお)り宣伝を疑う(= 「ピアノは脳トレになりますよ!」ならば、コンビニでバイトするほうがよっぽど脳トレになるうえに、働いた分お金ももらえる。 それから「歳をとってからも上達しますよ!」って、言う方は言うよ、お金目当てなら何だって言うよ。 それに、上達しなくても「それはあなたの練習不足」って言えるからね。)
生きがい追求のための出費を見直してみる(= そもそも、なんで音楽なんてやっているのか?絵だって囲碁だって他にも数限りなくあるのに)
その生きがいは自分の人生を幸せにしているのか? を考える(= 投じたお金を回収できない類の「費用的アクティビティ」について、お金と時間の垂れ流しになっていないかどうか精査する)。
そして、
ピアノをやめることは、
挫折でも敗北でも何でもない。
ピアノをやめても、
あなたの存在の価値はこれっぽっちも変わらない。
あなたは、ピアノごときに、巷(ちまた)の芸人くずれ(ピアノ教師)の言動ごときに、一喜一憂して振り回されるような、
つまらない存在ではない。
高尚なあなたにふさわしいものが、
世の中には数限りなくある。
楽しくないな~、と感じたら、スパッとやめて、
他の生きがいを楽しめばいいだけのこと。
人生一度きりかもしれないから、 生きがいぐらいは、
「自分の心のおもむくままに」が、
健康で幸せな人生の基本だ。
tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
歳をとってからピアノを習う際に留意すると良いこと | おんがくの細道
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
tokyotoad