以下は、20220119にアメブロに書いた記事:
前回の記事の続き。
ピアノでマトモに即興演奏に挑み始めて、まだ1年ほどだが、
自由は、
「不自由の枠」の中からしか生まれない
と、
つくづく実感する。
その最たるものが、
フリージャズや即興ライブと呼ばれているジャンルだろう。
私が、今生きているアメリカ最強のケンバニストさんだ!と思っている人が、
「さいしょにソロピアノ即興ライブの話をもらったとき、
自分はソロピアノ即興演奏ができるのだろうか?と
不安に思った」
と語る記事を、かつて読んだ時に、
私は背筋が凍りついた。
あの、
スタンダードからインプロヴまで
縦横無尽にアドリブ演奏をこなし、
中高時代にシュトックハウゼンからメタルまで
あらゆる音楽ジャンルに埋没&吸収し、
無名の身で地元の州の総合大学に入学した直後から
すぐにプロの目に留まって地元のジャズシーンで名を上げて
トッププレーヤーたちのサイドマンとして引っ張りだこまくりの年月を経て
同業者(プロ)の間での高い評価を受けて、
他所からの参入が最も厳しい場所のひとつであるNYのジャズシーンに
いとも簡単に参入し、いまも活躍し続けている、
そんな、有り得ない存在の人が、
「ソロピアノ即興ライブを行うのが不安だった」
と語るのだ。
これが、
正真正銘のプロの言葉であろう。
この人は、当然のことながら、ジャズ文法は神レベル、 加えて、
現代音楽文法やロックやポップス理論に造詣が深い、
西洋音楽理論を熟知している一流の中の一流のプロだ。
そんな超一流のプロにとってこそ、
リードシートも何もない、
海図無きテリトリーに
音楽で一人漕ぎ出す即興演奏は、
生きるか死ぬかの行為に等しいのだろう。
無知は無謀に無邪気に果敢になれるが、
知れば知るほど、怖くなって足がすくむのは、
どの世界、どの業界でも一緒だ。
実際には、この人の不安は、杞憂に終わった。
覚悟を決めて即興ソロピアノライブに挑んでみたら、
思いのほかよい演奏ができ、
その演奏CDは、地球上のインテリでスノッブな音楽愛好家たちに好評を博した。
以降、この人は、自身リーダーのトリオやカルテットと並んで、
即興ソロピアノライブでも第一人者となっている。
今までのキャリアを通して
20世紀以降の西洋音楽の理論と実践を
自家薬籠中の物にしている、
超一流だからこそのエピソードだ。
プロは、海図なきテリトリーに漕ぎ出しても、
頭上の太陽や月や惑星や星座のような
音楽理論の道しるべに照らして
常に自分の位置を計測しながら、
丸木舟で航行できるに足る、
知識とスキルと経験値を持っている。
トーシロから見れば「無謀でやりたい放題」の
「好き勝手に演ってるんだろ?」に聞こえる演奏であっても、
好き勝手にやりたい放題で演奏しているわけではない。
この、音楽における
太陽や月や惑星の運行や星座の移動の摂理に相当するのが、
音楽理論や文法である。
だから、
作曲であれ即興演奏であれ、
これらをロクに知らない人による創作は、
わかる人には、
これらをロクに知らずに演奏していることが
わかってしまう。
そこが、
プロと一般シロートを厳然と分かつ、底なしの谷間だ。
ということが、
ようやく実感できるようになってきたが、
自分で即興演奏していると、
踏んではいけない地雷を踏む踏む !
頭上の天空を見上げても、
「無知」の雲でほとんど覆われて、
天体の運行の摂理がほぼ把握できていない !
これでは、
海図なきテリトリーで
クラーケンに襲われたり、
サルガッソーの海藻にからめとられたり、
セイレーンの歌声で座礁したりするのは
目に見えている。
だから、
「無知に基づく自由」のもとに航行する際には、
沈没や座礁を最小限にするために、
「守り」の航行になりがちになる。
つまり、「決め打ち」になりがちになる。
「決め打ち」は、間違いが絶対に許されないような
組織的で経済規模の大きい音楽興行で演奏する際には、
最もシュアな方法だろうし、それを行う合理性が大いに有る。
ただ、「即興演奏」と謳うパフォーマンスにおいては、
「決め打ち」は、即興の自由度がゼロになった演奏だ。
つまり、自由などころか、不自由きわまりない演奏だ。
天空の天体の運行摂理を熟知すれば、
その摂理の制限をうけることになるが、
その制限というかルールに照らして
音楽の大海原を自由に航行でき、
ときには冒険的なルートをとっても
事故らず安全に航行できるようになる。
これが、プロの即興演奏レベルだ。
一見というか一聴して
「なんだこれは?デタラメのキタナイ演奏じゃないか!?」
と思われるジャズの巨人の演奏も、
実は、そのガラクタのような音楽の底辺に
音楽理論と文法が、
カヌーのキールのように、音楽表現の背骨となっている。
ということが、わかるようになってくる。
ようやく、わかるようになってきました。
↑ 以上は、西洋音楽に関してのことだが、
日本の伝統音楽には、日本の伝統音楽のための
天体の運行のルールを学ぶ必要があるだろう。
日本の伝統音楽のルールと、西洋音楽のルールの
両方を自家薬籠中の物にして
それらをリアルタイムで有機的に融合させながら
自在に即興演奏できる人が、
日本人ミュージシャンとして最強の存在であろう。
tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト
もとの記事@アメブロ:
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。
tokyotoad