ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

自由は不自由の中から生まれる

 

以下は、20220118にアメブロに書いた記事:

 

自由って何だろう?

 

半世紀以上生きてくると、

自由について、いろいろ思うようになった。

 

私は、自分の経験上、

自由は不自由の中から生まれる

と思っている。

 

別の言い方をすれば、

何かを諦めて、それについて不自由になることで、

別の何かを得て、別の自由を手にする

と思う。

 

Aを諦めれば、Aについては不自由になるけれど、

Aを諦めたことで、Bを得て、

Bによって、別の自由を得る。

 

世の中、

子どもの頃の夢を諦めて

本来ならやりたくなかった仕事をしている人が、

ほとんどだろう。

だが、

自分がやりたいことがお金になるケースは、あまりない。

なぜなら、

お金とは、

人さまの望みを叶えた時に

頂けるものだからだ。

自分がやりたいことができないのは、不自由だけど、

人さまの望みを叶える仕事をして得たお金を使って、

別の方法で夢を叶えることも可能だ。

逆に、

自分がやりたいことをするためには、誰かにお金を払うケースが多い。

たとえば、

歌手になりたくて、ライブハウスで歌いたい場合、

ライブハウスにお金を払い、

伴奏してくれるミュージシャンにお金を払う。

その後、自分の手元には、いくら残るだろうか?

そんなやり方で、いったい月にいくら稼げるだろうか?

そんなやり方で、生活していけるだろうか?

だから、

若い頃に夢を追いかけた結果、経済的に行き詰まって

今は全く別の仕事に就いている人たちが、無数にいるのだ。

 

逆に、

若い頃の音楽の夢を諦めて、一般企業などで働いて、

お金を稼ぎ、財を蓄えて、

人生の後半になってから、

夢に見た外国製のグランドピアノを購入したり、

自宅にシンセや音楽機材であふれた防音ルームを作って

音楽を楽しんでいる人も多いだろうし、

「いや、まだまだ。 もうしばらく我慢しよう」

と思いながら、夢を、

人生の最晩年の豊かな楽しみにとっておく人もいるだろう。

 

不自由をした後に、

自由を手にする。

 

 

人生に限らず、

この世のあらゆることについて、

自由は不自由の中から生まれる

と、私は思う。

 

たとえば、

ピアノのソロ演奏は、

自分の裁量の割合が大きいから自分の自由度が大きいけれど、

バンドの演奏やオーケストラの演奏に比べたら、

音色、音量、音楽の複雑さなど、

あらゆる規模において、音楽が大きく制限される。

なんせ、

楽器が1種類だけ、人間が一人だけの

ピン芸だからだ。

これに対して、

バンドやオーケストラは、複数の人たちが関与するから、

自分の裁量や自由度は限られるけど、

その分、

他のメンバーとの即興演奏で思わぬ良い化学反応が起きたり、

多彩な楽器で奏でるため音楽の複雑性が格段に増して、

音楽的な自由度の規模が大きく広がる。

 

ひとつひとつの楽器もそうだ。

ピアノは、音をサステインできないし、

マイクロトーナルな音程を出すことができない。

が、その代わり、パーカッシブな演奏ができるし、

一台でポリフォニックな音楽を、

幅広い音域で、かつ、かなりの音量で演奏できる。

だが、ピアノの重量は、その代償だ。 

だから、ピアノは、

ギターみたいにどこへでも自由に持って行けてポリフォニックな音楽を奏でることが、できない。

ホーンは、単音しか奏でられないから、音楽的な自由度は限られるけれど、

ホーンと一緒では、ピアノやギターは、主役にはなれない。

 

即興演奏も然りだ。

ちゃんとしたプロによる即興演奏は、

音楽文法という縛りの中で行われる。

縛りがあってこその、自由な演奏だ。

 

 

次回に続く...

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

自由は不自由の中から生まれる | おんがくの細道

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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