以下は、20220303にアメブロに書いた記事:
前回の記事でも、本題に入れなかったので、
そろそろ本題に入ろう。
ギターが、いつごろから
日本で一般的に広まったのか、私は知らない。
少なくとも、私がいままで実際に見聞きした経験では、
今現在90歳前後の人たちにとっての手近な楽器は
ハーモニカであったと思われる。
また、
今現在80歳以上の人たちで、子どもの頃からギターを弾きなれている人は、少なそうである。
だが、 いわゆるその下の
「団塊の世代」の、とくに男性は、ギターを弾きなれているだろう。
学生運動といえば、
フォークギターのストローク弾き伴奏に乗って、
学生の集団が隣同士肩を組み、
〽君の~行く~道は~、果てし~なく~遠い~... や、
〽友よ~... 夜明けは~近い~
などを熱く合唱して連帯を確認し合い、
デモに参加してシュプレヒコールをあげ、
大学の校舎に向かって火炎瓶を投げ、はては、
最高学府のキャンパス内で爆薬か何かで自爆自殺をする学生までいて、
多くの大学が一時的に閉鎖に追い込まれたそうである。
国立大学をはじめ名門大学で過激化していく学生たちのそばには、
いつもフォークギターが有った。
フォークギターは、大学生たちの心の叫びを、伴奏で支えた。
そして、
過激化をたどった学生運動がカルミネイトしたのが、
2022年2月に50周年を迎えた、浅間山荘事件である。
この事件の時、幼かった私は、
テレビの生中継で、鉄の大球が山荘にぶつかる衝撃のシーンをリアルタイムで見て覚えている。
幼い私だけではない、
日本中が、大人も子どもも、
浅間山荘への機動隊突入の生中継が映し出されるブラウン管テレビを、
お茶の間で食い入るように見入っていたのだ。
浅間山荘事件の犯人たちはみな、東大から有名私立大まで、
高学歴の大学生だった。
今も終身刑で服役している人もいると思う。
仲間同士の殺し合いにまで過激化した学生運動の指導者たちの中には、
事件後に飛行機をハイジャックして他国に逃れた人もいたと思う。
女優の坂井真紀さんが出演している映画で
当時の雰囲気を想像することができる。
高学歴の若者たちが国を憂いて
その若き純粋な思いが暴走していく様であるが、
それを、「暴走」と一刀両断して封じ込めてよかったのか?
団塊の世代の人たちに当時のことを尋ねてみたらどうだろうか?
おそらく、かれらの多くは、
笑ったり冗談を言ったりして、話をはぐらかすのではないか。
団塊世代の人たちが心の奥に負った傷の深さを、
年下の世代である私はわからない。
(そして、一刀両断されて封じ込められた、
高学歴の学生たちの鬱積した思いは、 時を超えて
1990年代に、カルト教団による地下鉄テロへと姿を変えて
再び噴出したのである)
いずれにせよ、
フォークギターは、
国を憂い、国会議事堂の前を練り歩いてデモをし、
シュプレヒコールをあげ、火炎瓶を投げ、大学を閉鎖に追い込む彼らの
音楽的な象徴だったのであろう。
だから、
私が中学に入学した1970年代後半、
中学生が、とくに女子中学生がフォークギターを手にすることに対して、
親や先生たちは顔をしかめた。
団塊の世代より年上の、私の親や先生たちの世代は、
フォークギターを、
殺人事件にまで発展した過激な学生運動と関連付けて見ていたのかもしれない。
ところが、その数年前から、
歌謡曲の世界では、
フォークギターを弾き語りしながら自作曲を歌うグループが登場しはじめていた。
ガロ、かぐや姫、バンバンなど。
そして、さだまさしがいたグレープ。
グレープは、さだまさしがバイオリンを弾いていた。
この、「バイオリン(というハイソなイメージのある楽器)を弾く」行為が、
さだまさしを、他のフォークグループから差別化していたのではないか?よくわからない。
(↑それに、さだまさしの作る歌の歌詞に
純文学のような叙情性が有ったことも、
さだまさしを特別な存在にしたのだろう。)
これらのフォークグループによるヒット曲によって、
フォークギターは、徐々に、お茶の間に復権していったのではなかろうか。
そして、満を持して登場したのが、
アリスである。
アリスは、音楽性もビートが効いた派手なものになり、
当時、近所の中高生や大学生のお兄さんたちが、
アリスの曲をフォークギターでかき鳴らしながら歌う、野太い歌声が、
窓から聞こえてきていた。
フォークギターは、アリスによって、
日本のお茶の間に完全に復権したのではなかろうか、と私は思う。
ここまではフォークギターの話であったが、
日本社会において、エレキギターは、フォークギターとは別の道を歩んできたようである。
日本におけるエレキギターの火付け役は、ベンチャーズや、ビートルズの来日であろうか。
生まれていなかったので、私にはわからない。
それ以前の、ジャズ隆盛の頃に、
植木等がクレイジーキャッツで弾いていたのもエレキギターだった。
エレキギターには、フォークギターに漂う学生運動のイメージが、無い。
フォークギターは電源を必要としないので、どこでも演奏できて、
学生運動と相性が良かったのだろう。
これに対して、エレキギターのほうが、フォークギターよりも、
お金持ちの坊ちゃんたちの趣味だったのかもしれない。
それだけ、高額だったのかもしれないし、
だいいち、ギターを買っただけでは音も鳴らないので、
一億総中流の日本社会でフォークギターが男子中学生~大学生の間で復権したのと少しだけ時を遅れて、
日本にエレキギターの全盛期がやって来たように思う。
「外タレ」と呼ばれていた米英のロックバンドに加えて、
日本のロックバンドやフュージョンバンドが次々に誕生して、
バンドの花形である超絶技巧ギタリストたちへの憧れが、トリガーしたんだろう。
日本の楽器メーカーもギターを量産する。
戦後日本に生まれた一億人の中流階級という巨大マーケットが、
ギターを手にして、弾きまくっていく。
一方、
ギターとは対照的に
「深窓のご令嬢のお手習い」のイメージや
「ご大家の物好きな御曹司の手なぐさみ」の立ち位置から変化がなかった
ピアノ、というか鍵盤楽器にも、
大変革の波がやってくる。
1980~85年の5年の間に、
それまではモノフォニックしかなかったシンセサイザーが
ポリフォニック楽器になり、日本国内で量産されはじめた。
日本の著名メーカーの象徴的なポリフォニックシンセ(原理はアメリカ由来)は、
数年足らずで全米ヒットチャートの音楽に普及していった。
日本において、
ポリフォニックシンセを縦横無尽に弾きまくるキーボーディストがいる
日本のインストバンドの曲が次々にヒットチャートを飾るようになった。
シンセは値段が高いといっても、
アコースティックピアノに比べればとても安価で、
道路工事や深夜の皿洗いといった割のいいバイトをちょっとすれば
誰にでも購入できる値段だ。 それに、
据え置き型の電子オルガンと違って、
持ち運びもできるから、
ヘッドフォンをして夜中でも自分の部屋で音作りや演奏に没頭できる。
それまでは、ピアノに象徴される鍵盤楽器は
「女子どもがお稽古事で習う楽器」というイメージがあったが、
ここに、 ギタリストの向こうを張って
ステージでキーボードを縦横無尽に弾きまくるケンバン男子が、
ようやく市民権を得ていくことになる。
そして、
エレキギターやシンセによる「音楽の電化」は、演奏者を、
楽器を弾くための演奏技巧を向上させる調教的な猛練習から、
演奏する前の準備段階における「音づくり」へと向かわせることになる。
エレキギターも、シンセも、
演奏者自らが音の波形を合成して、音楽に合った音を用意する
電子工学的な知識が求められるようになった。
1980年代を境に、
アコースティック楽器を単に楽譜どおりに間違いなく弾くだけでは価値を生めない世の中になった。
tokyotoad=おんがくを楽しむ風流への道を歩くピアニスト
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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。
「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。
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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。