おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

夢は買うもの(続き)

 

以下は、20211002にアメブロに書いた記事:

 

先日の記事:

夢は買うもの

 

の続き。

 

私にとって、夢は買うものだ。

叶えるものではない。

夢を叶えるには、元手が要る。

 

と書いた。

 

夢を叶えるための、元手は、

お金ばかりではない。

 

お金が無い場合は、

労働時間の集積によって、

夢を叶えることができるかもしれない。

 

ふつうの労働では、

労働時間の集積は、稼ぎ(お金)に変換される。

でも、なかには、

GDPの計算に反映されない、タダ働きもある。

 

タダ働きとは、自己犠牲の一形態だ。

 

ただし、

「タダほど高いものはない」

とも言われる。

 

世の中では、

人のために自分の労働や時間を犠牲にすることが多い。

人生の大半の時間を生贄として捧げる人も、少なくない。

 

人生の前半で、好きなように生きられるのが良いのか、

人生の後半になって、余裕ができてから、ささやかな自由時間を持てるようになるのが良いのか、

どちらが良いのか、私にはわからない。 ただ、

人生における夢や、生きがい、やりがい、好み、こだわりといったものは、

会計の前受収益や前払費用みたいなものなんだろう、と思う。

 

自分の夢や望みを押し殺すことは無駄にはならない、と、

私は、半世紀以上の人生で感じている。



社会で成功している人たちに限って、

自分の時間も都合も好みも、無い。

自分の存在のほとんどを、社会のために使って生きている。

起きてから寝るまで、一日中、人のために生きている。

家族のために、チームのために、部門のために、働いている。

会社の業績アップのために、業界の繁栄ために、

経済の繁栄のために、社会の繁栄のために、生きている。

自分のことを考える時間もなく、

マシーンのように生きている。

地位がある人ほど、

その人の日常は非人間的だ。

おいそれと病気にもなれない。

中村吉右衛門さんが、テレビ時代劇「鬼平犯科帳」の収録シーズン中に最も気を付けたことは、

病気や怪我をしないことだったという。

自分の出番の撮影ために、撮影スタッフ・事務方・共演者の俳優といった

たくさんの人たちがスケジュールを空けてくれている。 

自分の体調不良で彼らの時間コストをおじゃんにするわけにはいかない。

吉右衛門さんには、好きなことを仕事に選ぶ自由もなかった。

吉右衛門さんが歌舞伎役者にならなかったら、歌舞伎の大名跡のひとつが途絶えてしまうからだ。

おじいちゃんの大名跡を絶やさないために、生まれた家から出されて、おじいちゃんの養子になった。 吉右衛門さんが選んだことではない。 吉右衛門さんが生まれる前から決められていたのだ。 

歌舞伎の大名跡の下には、たくさんの人たちの生活がぶら下がっている。

その人たちの生活のためにも、簡単に絶やすわけにはいかないのだろう。

吉右衛門さんの一生は、己(おのれ)が不在の一生だ。

そして、吉右衛門さんは、人間国宝になった。

娘婿の尾上菊之助さんも、ものすごいプレッシャーの中に生きているだろう。

菊之助さんは、実父の尾上菊五郎さんと義理の父親の吉右衛門さんが二人とも人間国宝だから、

人間国宝になるしか道は無い。 

人間国宝は、世襲ではない。

人間国宝になるためには、

人間国宝になるにふさわしい功績を残すことが必要だ。 だから、

風の谷のナウシカ」を歌舞伎に翻案するなど、

「21世紀の人間国宝にふさわしい」と世間が認める仕事をするべく邁進しているに違いない。

チャップリンの映画を歌舞伎に翻案した、吉右衛門さんの甥の松本幸四郎さんもそうだ。

実父の松本白鷗さんは人間国宝だ。

市川猿之助さんによる「ワンピース」のスーパー歌舞伎も然りだ。

日本のアニメや西洋映画といった、今の時代の新しい要素を加えて、歌舞伎の伝統を次の世代へ生き生きとつなぐ。 

そのヴィークル(運び屋)としての役目を、人生をかけて行っている。

歌舞伎役者として生まれた自分たちが生きた時代に、「忠臣蔵」や「勧進帳」にも劣らない未来のブロックバスター伝統演目を生み出したいという気概が伝わってくる。

彼らは己(おのれ)のために生きていない。

彼らは歌舞伎のために生きている。

彼らが己(おのれ)を捨てて歌舞伎に人生を捧げていることを、世間はわかっている。 

だから世間は彼らを称賛し、彼らの中から人間国宝が出る。

名誉ある地位は、自分の人生を自分以外のものに捧げたことに対する対価だ。

歌舞伎の世界は、梨園に生きる女性にとっても無私の世界だ。

歌舞伎役者の裏方を一手に引き受ける奥さんたちも、己(おのれ)を捨てて歌舞伎のために生きている。 

父親との約束どおり男子を2人産んだ中村吉右衛門さんのお母さんや、歌舞伎役者になれない女性の身として、男子を生んで歌舞伎界に送り込んだ寺島しのぶさんのように、梨園に生まれた女性たちの人生もまた、歌舞伎のための無私の戦いである。 吉右衛門さんの奥さんや、尾上菊之助さんと結婚した吉右衛門のお嬢さんが背負うもの、また彼女たちの胸中は、好き勝手に生きられる市井の者たちからは計り知れない。

 

好き勝手に生きられることが、果たして良いことなのかどうか、についても、私はわからない。

 

決められた人生のレールを歩くことを定められている人が、世の中にはたくさんいる。

八百屋の息子や、町工場の社長の娘も、そうだろう。 後継ぎの期待を受けて成長する。

「育てたよ、あとはどこへでも行って自分の好きなように生きてゆけ」みたいな、私のような下賤な出の者のほうが、世の中にはけっこう少ないのかもしれない。

蝶よ花よと育てられて、いざ年頃になると、自分の夢や望みを封印して、

親の敷いたレールに乗っていく、同級生や職場の同僚を、私は見てきた。

世間の風からずっと守ってくれる存在がいることは、とても心強いものだろう、うらやましいなぁ、と思ったものだ。

 

他人さまばかりの世間の風は、冷たい。 でも、無力であっても、

前に進もうと汗をかいてもがいていると、どこからか手が差し伸べられた。

職場の同僚がよい仕事先を紹介してくれたり、

さいごには、一時期働いていたある優良な会社から社員のオファーをもらった。

一生懸命仕事していたことを、見てくれていたんだなぁ、と、感無量だった。

仕事ばかりではない。

どんな人にも敬意を払い、誠意を尽くしていると、良くとり計らってもらえるようになる。

物事をスムーズに運んでもらえるようになる。 

それがとても有難くて、さらに敬意を払って誠意を尽くす。

 

だんだん歳をとっていくと、

前に進もうと自分で汗をかいてもがいている人が、わかるようになる。

「応援してあげたい」という気持ちになる。

私に手を差し伸べてくれた人たちも、そういう気持ちだったのかもしれない。

宅急便や郵便配達の人、受付係、店員さんなど、日々会う人たちのなかに、

一生懸命気を働かせて明るく仕事をしている人には、笑顔で感謝し、アンケートがあれば称賛する。

私ができることはそれくらいだが、

できることのなかで、彼らを精一杯アプリシエイトする。

彼らを称賛することによって彼らに出世してもらったほうが、世の中が、社会が、より住みやすくハッピーになって、もっと繁栄するからだ。

たぶん私も、たくさんの誰かにアプリシエイトされて、今ここまで来られたんだ、と感じる。

今度は私がアプリシエイトして世間様にお返しをする。

 

今まで生きてきて、

自分や、周りの人たちの生きざまを見てきて、

今思うのは、

人生は、終わってみればプラスマイナスゼロらしい、ということだ。

世間は見ている。 世間の目は節穴ではない。 世間の目はシビアだ。

シビアだが、暖かくもある。 世間の目は、どこかで公平なのだ。

お天道様は、いつも見ている。

人はみな、それぞれの生きざまに見合ったご褒美を、

お天道様から受け取っているだけなのだ。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

ameblo.jp

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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