ピアノ方丈記

音楽の彼岸にて【指の健康寿命を気遣いながら!】シニアのピアノ一人遊びの日々

「ツェルニーの呪い」について

 

以下は、20220209にアメブロに書いた記事:

 

いままで旧ブログ(はてなブログ)やこのブログで、

私にとっての

ツェルニー(チェルニー)の呪い」的なものについていろいろ書いてきたが、

あくまでも、私の個人的な追求分野における巨大な足かせになっているというだけで、

私にとっては「呪い」なんだけど、

他の人にとっては大いなる「祝福」であるケースも多かろう。

 

ツェルニーを練習すれば、ひととおり古典は弾けるようになるわよ」

とは、私が子ども時代に習ったピアノの先生が

自信満々に言った言葉であるが、

 

それを聞いて

目の前が真っ暗になった私にとっては、

ツェルニーは呪い以外の何ものでもないが、

逆に、

それを聞いたら

目の前にお花畑が広がる人もいるだろう。

 

人それぞれ、興味の分野もそれぞれである。

 

子どもの頃のクラシックピアノのレッスンを通して

私の脳内の爬虫類脳にまで染み付いてしまっている、

私にとっては「呪い」である、

この「ツェルニーの呪い」が、

いったい何であるか、

煎じ詰めると、

ある一つの音に集約されることを、

大脳の前頭葉ではわかっていたが、

ようやく間脳あたりまで理解が深まってきた。

 

この音は、

先日の冬季オリンピックの羽生選手が足を引っかけた

氷上の穴みたいなもんだね。

五輪中継を見ないので詳しくは知らないが、

その穴自体は、別に悪意があって作られたわけではないんだけど、

知らずに引っかかると破壊力のダメージがすざまじい、というシロモノなんだろう。

  

あるいは、

日本語⇔米語に当てはめると、

「r」の発音になるだろう。

日本人は米語の「r」の発音が苦手だが、

米国人は日本語の「ら」の発音が、同じくらい苦手だろう。

 

でも、

日本人が米語を話そうとしなければ、日本人にとって全く問題にならないし、

米国人が日本語を話そうとしなければ、米国人にとって全く問題にならない。

ひとつの世界から、全く異質な別の世界へ行こうとするときに

はじめて、

大きな問題として認識される要素なのだ。

 

つまり、

「訛(なま)り」の問題なのだ。

そして、

「訛(なま)り」の問題は、

それを矯正しようとすると、

とても一筋縄ではいかない。

 

私にとっての「ツェルニーの呪い」とは、

そういった類のものだ。

  (ちなみに、「モーツァルトの呪い」とも言える)

 

以下は、20220525に追記:

 上記で、「あるひとつの音に集約される」と書いたが、

 実際には、「あるふたつの音の取り扱い方が、古典派に代表される西洋クラシック音楽と、ジャズに代表される20世紀以降の西洋音楽の間で、大きく異なる、と感じる。

 「ひとつの音」がキモになるのは、20世紀中ごろまでの西洋音楽についてで、20世紀後半からは、もうひとつの音も大いにキモになってくるだろう。  

子どもの頃にツェルニーを何冊も練習すると、20世紀以降の西洋音楽への足かせになってしまうと、個人的に感じている。 だから、20世紀以降の西洋音楽に全く興味がない向きにとっては、ツェルニーは呪いどころか大いなる恩恵である、と私は思う。

 

 

 

 

 

 

tokyotoad=おんがくを楽しむピアニスト

 

 

もとの記事@アメブロ

「ツェルニーの呪い」について | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。