おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

ツェルニーは、ピアノの「体育座り」である

 

以下は、20210921にアメブロに書いた記事

 

こんな記事があった:

 

が、これよりちょっと前にみかけた記事では、

西日本のどこかの学校では、体育座りの代わりに、

子どもたちに椅子に腰かけてもらうようにした、とあった。

 

これがあるべき姿であろう。

 

上記の記事の「歌膝」は、雅なポーズのようだが、

先生に見降ろされては、「体育座り」と何ら変わりがないからだ。

 

つまり、

子どもたちを地べたに尻をつかせて座らせ、

先生は立って子どもたちを見下ろす

という形に変わりはない。

 

この形は、

植民地における支配者と原住民の関係を象徴するからだ。

まったくヒドい慣習である。

 

戦後の小学校で「体育座り」が採用された理由は、

先生が子どもを管理しやすいからだ。

あくまでも、

先生の便宜のために、子どもたちをサル扱いし、

子どもたちに子どもたち自身によって自らに手かせ足かせをはめさせるという、

最悪レベルの同化政策だ。

小学校から6年間も体育座りをさせられた子どもたちは、

自分たちは地べたに尻をつく劣った存在であること、そして、

自分たちはいつも「先生」を見上げ、「先生」にひれ伏すべき存在であること、を、

幼い脳に無意識に刷り込まさせられる。

 

ツェルニーも、ピアノ教育における「体育座り」ではなかろうか!

と、私は直観した。

バイエル、ブルグミュラーも、そうであろう。

要は、

教える側にとって楽なことこの上ないからだ。

どんなに演奏の実力が無いピアノ教師でも、

この3つさえカバーできていれば、

初心者相手に判で押したようにこれらを教えれば、当座は事足りるからだ。

先生にとって、楽なことこの上ない。

そこには、惰性と思考停止がある。 

工夫や革新が不在だ。

脳の働きが停止している。

要するに、未来への進歩が無い。

 

教わる側にしたら、どうだろうか?

教わる人は、ほんとうに、これらの音楽を弾きたくて練習しているのだろうか?

「バイエル、ツェルニー、ブルグミュラーを卒業したら、バッハやベートーベンが弾けますよ。」

と、単に、先生に言われるがまま、

「次のレッスンでマルをもらえたら...」と練習しているだけではあるまいか?

それらの曲にマルをもらって、本当に嬉しいか?

 

バッハやベートーベン本人は、これらの本を練習することなく、

名キーボーディスト&音楽監督&大作曲家になった。

ドビュッシーは、ツェルニーの練習曲を揶揄った曲を作っている。 

「音楽ではない」と言わんばかりに。

 

人間である以上、

社会で生きる上でディスィプリン(規律)は大切だ。

だが、

人間の尊厳と個人の主体を維持した上でのディスィプリンでなければ、

単なる奴隷やサーカスの動物の大量生産になってしまう。

 

 

※ 記事冒頭の、

  小学校教育における体育座りの採用の背景について、

  竹内敏晴氏の著作で知った。

 

 

tokyotoad = おんがくを楽しむピアニスト

 

もとの記事@アメブロ

ツェルニーは、ピアノの「体育座り」である | おんがくの細道

 

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このブログ「おんがくの彼岸(ひがん)」は、私 tokyotoad が、中学卒業時に家の経済的な事情で諦めた「自分の思いのままに自由自在に音楽を表現する」という夢の追求を、35年ぶりに再開して、独学で試行錯誤をつづけて、なんとかそのスタート地点に立つまでの過程で考えたことや感じたことを記録したものです。

「おんがくの彼岸(ひがん)」というタイトルは、「人間が叡智を結集して追求したその果てに有る、どのジャンルにも属さないと同時に、あらゆるジャンルでもある、最も進化した究極の音楽が鳴っている場所」、という意味でつけました。 そして、最も進化した究極の音楽が鳴っているその場所には、無音静寂の中に自然界の音(ホワイトノイズ)だけが鳴っているのではないか?と感じます(ジョン・ケイジはそれを表現しようとしたのではなかろうか?)。 西洋クラシック音楽を含めた民族音楽から20世紀の音楽やノイズなどの実験音楽まで、地上のあらゆるジャンルの音楽を一度にすべて鳴らしたら、すべての音の波長が互いにオフセットされるのではないか? 人間が鳴らした音がすべてキャンセルされて無音静寂になったところに、波の音や風の音や虫や鳥や動物の鳴き声が混ざり合いキャンセルされた、花鳥風月のホワイトノイズだけが響いている。 そのとき、前頭葉の理論や方法論で塗り固められた音楽から解き放たれた人間は、自分の身の中のひとつひとつの細胞の原子の振動が起こす生命の波長に、静かに耳を傾けて、自分の存在の原点であり、自分にとって最も大切な音楽である、命の響きを、全身全霊で感じる。 そして、その衝動を感じるままに声をあげ、手を叩き、地面を踏み鳴らし、全身を楽器にして踊る。 そばに落ちていた木の棒を拾い上げて傍らの岩を叩き、ここに、新たな音楽の彼岸(無音静寂)への人間の旅が始まる。

tokyotoadのtoadはガマガエル(ヒキガエル)のことです。昔から東京の都心や郊外に住んでいる、動作がのろくてぎこちない、不器用で地味な動物ですが、ひとたび大きく成長すると、冷やかしにかみついたネコが目を回すほどの、変な毒というかガマの油を皮膚に持っているみたいです。

 

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↑ 不本意にもこんな野暮なことを書かなければならないのは、過去にちまたのピアノの先生方に、この記事の内容をパクったブログ記事を挙げられたことが何度かあったからです。 トホホ...。ピアノの先生さんたちよ、ちったぁ「品格」ってぇもんをお持ちなさいよ...。

 

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