音楽の彼岸のピアノ遊び

大人のピアノ道楽を満喫するピアノ一人遊びの日々

J-POP と 日本 と。

 

以前、こんな記事を書きました: tokyotoad1.hatenablog.com

 

そのなかで、「日本語」という「言語障壁」の大きなプラスの価値について、書いたのですが、(関税や、ISOなどのルール制定と同じように、言語も、その国の国富を守るための、有用な障壁であり、欧米はもちろん、各国は堂々と、自国に有益な、様々な障壁を作っている)、

 

「日本語バリアー」に大きな経済的価値があることについて、下記の田中修治氏も語っていたので、リンクを貼り付けます:

www.youtube.com

 

「日本語バリアー」には、経済的な価値はもちろんのこと、それ以前に、途方もない文化的な価値があります。 言葉は、その国の文化と伝統の象徴です。 能も狂言も、文楽も歌舞伎も、J-POPもアニメも、日本語を基盤にした、長い文化の伝統のスープの中から、生まれ、進化発展してきたものです。 だから、自分の国の言葉を、ほかの国の言葉より価値のない劣ったものだと考えた時点で、その国はお先真っ暗です。 自分の国で歌われている流行歌を、自分で嘲笑するような人は、自らの存在基盤を自ら踏みつけている、とても哀れな人です。  言葉は、文化を、コンテンツを生み出す、土台です。 自国のコンテンツに経済的な付加価値をつけて販売して利益をあげたいなら、その文化の土台となっている言葉を、まず第一に大切にするべきです。 日本の文化を安売りしないことです(今は、世界的に見てものすごくプレミアムのある日本の真価が分からない自虐的な人たちが「上」のほうでトホホなことをするもんだから、日本は安売りされすぎで、豊かな国土と文化というプライスレスな国富がダダ漏れ状態!と、英語圏に数年住んだことのある私は思うよ)。

 

上記の対談動画のように、若いリーダーたちの中に、むしろ、若い人たちのほうが、自分と自分の国について健全な自己肯定感を持っているんだ、ということを知って、心強く思いました。

 

若いリーダーたちの多くは30代~40代。 平成の世の中で育ったひとたちです。 良い意味で、昭和の呪縛を知ることがない人たちです。

 

元号が「平成」になったとき、「いい元号になってよかった」と、ほっとした雰囲気が社会を包んだことを、覚えています。

 

平成時代には、いろいろ悪いこともありましたが、いいこともたくさんあったと、振り返ると感じます。 

 

とくに、大きかったのは、逮捕され刑期を終えて再び世に出たホリエモンが、スティグマを負わされることなく、今も活躍できていることでしょう(昭和の時代だったら、無理だったと思う)。 失敗しても、再チャレンジができる世の中になりました。

 

明治維新から昭和の終わりまで採用されていたメカニズムが、瓦解する音が聞こえます。 でも、もっと短いスパンで、20年ぐらいのサイクルで、日本は激変を繰り返してきたんだと、人生ある程度生きてくると、肌で感じます。 いや、日本だけでなく、世界は、20年周期ぐらいで、ガランガランと、激変してきたんだ、そして、これからも激しく激変していくんだなぁ、と、戦慄を感じます。 親の価値観は、子どもには、通用しない。 中高年の価値観が跋扈(ばっこ)するままでは、若い人たちはその若さと才能を存分に伸ばせない。

 

「昔のほうが良かった」と思うことがたくさんあります。ですが、世の中はどんどん進化していて、若い人たちは、頼りなさそうに見えて、実は、とても優秀で、一生懸命に考えて生きていて、進化し続けているんだと、思います。 

 

音楽だってそうです。今やっている高校野球の応援バンドの演奏を、昭和の時代と比べれば、明らかです。 ギター片手に趣味で歌を作って、ちょっとした会で歌う30代のアマチュアの人たちが使いこなしているコードや、コード進行や、リズム感や、スピードをみれば、明らかです。

 

若い人たちが、自分で一生懸命勉強したり、調べたり、考えたり、社会経験を積んだ結果として、自分の思いを歌や文章などで自由に表現したり、いろいろなことを議論し合ったりして、それらに対して、一般社会の普通の人たちの気持ちを無視したコントロールがなされることがない、風通しの良い環境を得られているのは、とても健全なことだと思います。 世界には、そうできない国に生きる若者がたくさんいると思います。

 

でも、「日本は、どうして、うまくいかないんだろう?」と思うことがあるとすれば、それは、「今まで、この国に人生を賭し、無念な思いをして死んでいった人たちに、敬意を払わずリスペクトしてこなかった、その人たちの恨み」が、怨念になっているからかもしれません。

 

人間の尊厳を踏みにじられ、リスペクトをもって扱われずに、無念に死んでいった人たちは、「神」となって「鎮魂」されてきました。 「鎮魂」とは、「その人から祟(たた)られるような、ヒドい抹殺の仕方をしたのに、祟られないように、一見、奉(たてまつ)っているように見せかけて、実は重いもので押さえつけて鎮め封じ込めようとする行為」です。(日本では「神」は「1柱」「2柱」と数えますが、人骨も「1柱」「2柱」と数えます)

 

わが意に反して無念のうちにはく奪された魂を、抑えられ鎮められ封じ込められて、忘れ去られてしまった人たちが、おびただしい数でいることでしょう。 たとえば、東京の土には、数え切れないほどの人間の脂が、染み込んでいます。 東京大空襲で、無数の人たちが、非常に高い温度で焼かれたため、フライパンでベーコンを焼くと脂が溶け出すように、その人たちから溶け出した脂が、東京の大地に染み込んでいます(いまも、その脂を消しても消しても消えない場所があります)。 広島や長崎は言うに及ばず、空爆を受けた、日本中の都市もそうでしょう。 脂じゃなければ、沖縄の「ハンバーガー通り」のような場所もあるでしょう。 東京大空襲では、下町のほかに、山の手でもたくさんの人が焼け死に、あるいは、家の庭に掘った防空壕の中で、蒸し焼きになりました。 今の上野公園の地下にあった防空壕に逃げ込んだ人たちの多くも、亡くなりました(私の祖父も逃げ込みましたが、死なずに済みました。だから、私は、今、ここに、生きています)。 それよりずっと前、明治維新の時には、今の上野公園には、幕府側について戦った彰義隊(しょうぎたい)の人たちの死骸が、「逆賊」だからと、丁重な供養もされず、腐敗するにまかせて、打ち捨てられました。 明治以降、そして戦後、仕方がなかったとはいえ、猛スピードの産業振興によって、各地で公害病や事故災害が発生して、たくさんの人が死んだり、後遺症で苦しんだり、それによる差別などで、人生のバリューが大きく損なわれて、不遇の一生を送りました/今も送っています。 そういう人たちの命の重さを、今生きている多くの人たちは、忘れてしまっています。 先人たちの無念の思いをリスペクトしないどころか、虫けらのように考えたり、死んだら忘れて無かったことにするようでは、この先、何をどうやっても、うまくいかないことでしょう。

 

出生率が低下したのは、一人前の人間として扱ってこなかった女性たちの存在&人生&労働を、都合よく利用するだけで、引き続きリスペクトしてこなかったから、そうなったんでしょう。 派遣社員の人たちを二級市民同様に扱えば、彼らの怨念も、かえってくることでしょう。 天災や人災の被害地域の人たちを、差別するようなことをすれば、それも、将来、かえってくることでしょう。 

 

「●●国はこうなのに、日本はダメだ」とか「日本は世界から遅れている」とか「世界から笑われる日本」みたいな、根拠あるのかどうかもよくわからないような意見が出るのは、この社会で意に反して生きづらい思いをせざるを得なかった、「日本人で負け組となった人たち」や「日本国籍なのにマイノリティに分類された人たち」の恨み節が、因果となって、はね返ってきているんでしょう。

 

因果応報。  恨みや怨念は、べつに、オカルトや超自然的な現象ではありません。 その地に住む人たちが、先祖・先人たちの無念の思いを、心の底に、代々受け継いでいるものです。 恨みや怨念は、大きなトラウマとなっています。 あまりにも傷が深く、重いため、それを軽々しく口にしたり、相手の譲歩を引き出すために騒ぎ立て利用しようと思えるような、そんな軽々しいものではありません。 穏やかな笑顔と丁寧なお辞儀の下に隠した、心の最も深い底に、深々と刻まれ、代々受け継がれていく類のものです。 そんな事情を知らない、どこからかやって来た他の誰かが消そうと思っても、彼らの手が届かない、心の底に、脈々と受け継がれてゆくものです。

 

まずは、人種や出自を問わずに、日本人として生きることを選んだ、日本語を母国語として話す、同じ日本人どうしが、互いに苦労を思いやって、リスペクトし合っていけば、このような怨念は、供養されていくでしょう。 日本の国内でがんばっている日本人をないがしろにして、不便な思いをさせて、我慢をさせている一方で、英語かなんかでペラペラしゃべって外国相手にいい格好をしたって(←実際、カッコ悪いよ)、ちっとも怨念の供養にはならないでしょう(し、そういう薄っぺらい行いは、そもそも、優れた人がやることではありません。という意味では、自分が生きる社会を回してくれている、目立たないけれどいちばん近いところで日々頑張ってる無数の存在である「お陰様(おかげさま)」を尊敬し、その苦労を思いやって感謝する気持ちを持てば、誰でも、等しく、優れた人になれます。「優れている」というのは、家柄や学歴や社会的地位や技能・資格といった表面上の優劣ではなく、その人の「心の優劣」です。「心の優劣」こそが、この世で最も強大な価値です。そして、「お陰様(おかげさま)を尊び敬い、感謝する心」が、日本という国が象徴する、人類の最も崇高な精神価値なのです)。

 

そのためには、まず自分で自分を呪わないことです。「私はダメだ」とか「私は下手だ」とか「どうせ私にはできない」とか、自分を思いやらないばかりか、自分を呪うばかりで、ちっともリスペクトしなければ、自分以外の人をリスペクトできるはずがありません。 

 

「私は、生まれてきた、このまんまで、すばらしいんだ!」と、笑顔で胸を張って、そして、「長い間、ずーっと昔から、この土地で、この国で、一生懸命苦しんで生きて、死んでいった、無数の、無名の人たちが、命を張ってくれたから、私は、いま、ここに、生きていられるんだ」という、先人への感謝を持って、彼らの無念に深く思いをはせる気持ちを忘れずに、自分が接する人たちを思いやって、リスペクトして生きることが、未来の安らかで平らかな幸せに通じる道だと、思います。

 

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報道や意見が、お金(メディアのスポンサーになること)で買えることが、あからさまにわかる時代になりました。 

 

誰がメディアのスポンサーになっているかは、そのメディアの記事の選び方(誰を優先的に記事にしているか)、記事の論調(誰に有利なように、誰に不利になるように書かれているか)や、画像写真(誰や何を選んで、どのように表現しているか)などに、ちょっと注意を払えば、わかることでしょう。

 

その中にあって、自分自身でいろいろ考えて、自分なりの方向性を生きるには、周りの煽りに一喜一憂したり簡単に流されないように、平らかで健全な自己肯定感を持つことが、ますます大切になるでしょう。

 

古い時代から、「相手の命を奪ったり傷つけたりしないで、相手を支配する」方法が、いろいろな分野で模索されてきました。 「相手の自己重要感をそいで、自信を失わせる」ことが、その最たる方法です。 思うつぼにはまらずに、生きていきたいものです。