おんがくの彼岸(ひがん)

「出すぎた杭」の大人ピアノならではの自由と醍醐味(だいごみ)を楽しむtokyotoadのブログ

日本人とピアノ

 

 

ピアノという楽器は、面白い楽器だなぁ、と思います。

 

ピアノには、ある特有のイメージが付けられている。

「良家の子女が弾く」とか、

「東大生の多くがピアノのレッスンを受けていた」とか。

 

なんだか、ピアノを趣味にすると、

自分の格に下駄(ゲタ)をはかせてもらえるような、そんなイメージがある。

それを狙って、ピアノを弾く人もいるのかな。

良い出会いにつながれば、と思って弾く人もいるのかな。

 

昭和の時代とちがって、

企業が男女の社員を大量採用しなくなったもんね。

社内で出会いの機会も少なくなったことだろう。

ピアノ会には、かつてのテニスサークル*みたいなノリがあるのかな。

(*バブル時代の名著『金魂巻』(by渡辺和博)に書かれている、マル金/マルビの女子大生の比較を思い出す)

 

 

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(蒸気船)  たつた四杯で 夜も寝られず」

 と、幕末の狂歌にも読まれた、黒船。

幕末の日本人は、腰を抜かしてびっくりした。

 

 

私は、

ピアノは、楽器の黒船である

と直観しています。

 

 

なぜなら、ピアノは、

日本人がド肝を抜かれた、

欧米諸国の産業革命を象徴する、当時の最先端の工業製品だからです。

日本人が見たこともない、

人力では製造できない、大きくて重たい楽器で、

聞いたこともない大音量が出て、

複雑な音楽を一人で奏でられる、

日本人が畏れ奉った欧米の産業技術があって初めて製作できる楽器です。

パイプオルガンは、スケールが一般の認識からぶっとび過ぎてしまって、

認知がマヒする大きさですが、

ピアノは、そういう意味では「ちょうどいい」大きさだし、完成品を船で輸入できるから、

明治維新の日本に、すぐに入って来ただろう。

 

当時の日本人は、ピアノを見て、さぞかしびっくりしたに違いない。

ギターについては、琵琶や三味線があるし、

バイオリンについては、胡弓みたいな楽器があるし、

べつに驚かなかっただろう。

 

でも、ピアノには、驚いただろう。

重厚長大な鉱工業の先端技術を結集して製造された、

楽器の黒船だったことだろう。

 

その衝撃によるトラウマが、今でも、

日本人に憑りついているのかもしれない。

だから、ピアノ様は、

応接間やリビングルームのいちばんよい場所に陣取って、

ピアノ様を弾かせていただくために、

人間のほうが、参拝しに出向くのだ。

 ( ↑ 「楽器のポータビリティ」の決定的な差が、独習者が多く複雑なコードを自在にかき鳴らすギター愛好者と、「ピアノ様はレッスンを受けなければ弾かせていただくことができない」という固定観念のもとに楽譜どおりに弾くことを悲壮に絶対視するピアノ愛好者(というか奴隷)の、楽器と音楽に対する決定的なマインドセットの差になっているような気がしてならない。 人間が音楽の主人であり、音楽は、本来、心のままに奏でる気軽なものなのにね。)

 

ギターは、キャンプ場でも、カヌーの上でも、ソファーの上でも、ベッドの上でも、どこでも、ギターの所有者が好きなところに持っていけて、

四六時中弾いていられる。 

楽器の所有者が、楽器の主人でいられる。

これに対して、

ピアノ様は、黒光りした巨体をギラつかせながら、

「演奏したいなら俺様のところに来い!そうすれば弾かせてやる!」

と、言わんばかりに、デーン!と動かない。

何でもそうですが、

呼びつける方が、呼びつけられる方より、偉い。

という観念が、人間の中にはあるのです(日本人なら、わかるでしょ?)

楽器の所有者が、楽器の下僕になっている(楽器の大きさを力でねじ伏せられる人を除いて)。

 

そして、

家のいちばん良い場所にうやうやしく置かれた

ピアノ様の上には、なぜかわからないけど、

白いレースのカバーがかけられて、

バラの造花の花瓶がおかれたり、

ガラスケースに入った藤娘(ふじむすめ)がどういうわけかおかれたりして、

とくに、神棚や仏壇がないことが多い戦後の家では、

それらに代わるような、

神殿みたいになっていた。

 

 

ルノワールの絵に、ピアノを弾く2人のお嬢さんの絵があるが、

それに対する憧れもあったことだろう。

あのルノワールの絵に描かれたお嬢さんたちは、

フランス革命後に平民階級から成り上がった

ブルジョア(成金の平民)の娘たちだと思う。

そのあたりから、

それまでの「お客からお金をもらって音楽職人(芸人)が弾く」、プロのピアニズムとは全く別物の、

「良家のお嬢様のお手習い」としての素人ピアニズムが始まったのではないか。

(それによって、ツェルニーやブルグミュラーといった素人向けの楽譜が爆発的に売れたのではないか)

 

 

「良家のお嬢様」の記号としてのピアノ。

「頭脳が優秀で将来有望な若者」の記号としてのピアノ。

かつて、日本では、

「早乙女(イネの苗を植える若い女性)を一列に並ばせ、田植えをさせて、女性の品定めをする(安産型のお尻をしているかどうかを見る)」(←岡本太郎の著作より)

「全速力で走って神社のお社に貼ってあるお札をはがした男性が優勝」

みたいな、

若い男女における、子孫を残すための生物的な優劣の品評会が行われていた。

 

現在は、

黒光りする大きなグランドピアノの周りに、若い男女たちが集まって、ピアノを弾きあう。

黒光りする大きなグランドピアノは、日本が恐れおののいた欧米の鉱工業の象徴(黒船)か。 

それとも、

日本人の無意識の淵に鎮められた、子孫繁栄本能が昇華した遠い昔の土着の神なのか。

 

日本人のピアノ崇拝の背後にあるサイキについて思いを巡らしています。

  

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以下はこの記事からの引用:坂本龍一 の情報のまとめ - おんがくの彼岸(ひがん)

 

20180106:

年明けに、教授のドキュメンタリー映画Ryuichi Sakamoto: CODA」を観に行きました。観に行って良かったと思いました!

昨年、この映画に関する記事が日経に載っていましたが、生ピアノを「近代技術で鋳型にはめられた」、人工技術で自然の力を抑え込んだ存在としてとらえ、映画の中で、自然の力による本当の意味で自然な音を追求されている教授に、とても感動しました。

生ピアノはアコースティックだから自然で、電子ピアノやエレピやシンセは電気を使うから不自然、ではなくて、自然の摂理からすればどちらも不自然なんだと思いました。

映画の中で、YMO時代の教授が、速弾きを披露したあとで、「シンセサイザーは人間の身体能力では不可能な速さの演奏を可能にする」と、10年も20年も練習に費やすことに対して語っていたのも印象的でした。

12平均律による音が「ミュージカルサウンド」で、自然音は「ノイズ」、という認識は、実は逆で、自然界においては、人工的に調整した12平均律が「ノイズ」なんですね。

ツェルニーなどのドソミソドソミソに私が感じるカルキ臭さというか不快感は、人工的な12平均律の「ノイズ」によるものなのかもしれないと思いました。

明治維新のあと、日本では、理論的に体系化された西洋の音楽が進んだ優れたものとされ、江戸時代までの日本の音楽は遅れて劣ったものとされてきました。

20世紀の西洋音楽(現代音楽)が、ガムランやインドの音やリズムを取り入れたり、無調になっていったり、ついには楽器を演奏しない演奏にまでたどり着いてしまったのは、理論的に作られた音楽を、楽器を使って奏でる限界の中で、理論的に苦闘した末のことだったのでしょうか?

 「ピアノが象徴する近代の音楽体系への絶望は実は10代からあった。だから民族音楽電子音楽を勉強した」と、さきほどの日経記事にはあります。森羅万象に音源を求める教授は、日本の音楽家なんだなぁと思いました。

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